敗戦の認識2 責任を引き受ける

橋本明子著『日本の長い戦後』の続きです。
著者は、戦争と敗戦の記憶が、家庭、メディア、学校という日常の3領域で、どのように語られているかを検証します。漫画日本史など、子どもの教育に大きな影響を与える媒体も含まれています。教科書より影響は大きいかもしれません。
単に、頭の中で3つの類型を整理するだけではないのです。挙げられている実例をみると、「そうだよな」と納得します。

為政者や戦争に参加した人とその家族にとっては、第一類型としてとらえたいでしょう。第二類型も、聞きたくない話です。
第二類型は、戦争の痛ましさを語ることで、戦争反対の立場に立ちます。しかし、著者が指摘するように、アジアの被害者は、抜け落ちています。
第三類型を語らなければ、アジア各国との「和解」はできないのでしょう。この点については、ドイツとヨーロッパ各国との経験が比較されています。

起こした事件をどう記憶するか、どのように責任を考えるのか。それは、過去のこととして客観的に決まるものではありません。後世の者たちが、引き受けなければならないことです。「歴史とは現在と過去との絶え間ない対話である」(E・H・カー)を、改めて思い起こさせます。

国家というのは、やっかいなものです。父親が犯罪者であっても、子や孫はその責任を問われません。しかし、国家が起こした罪は、その当時に生まれていなかった後世の国民も引き受けなければなりません。
戦中と戦後の国民の悲惨な体験。アジアの人たちの思い。軍隊を持つことを禁止された国。70年経っても癒えない傷。これらを見たら、戦争を起こした責任者たちは、どのような感想を述べるでしょうか。為政者は、その時々だけでなく、遠い将来を、そして影響を与える諸外国との関係も見据えた判断が必要です。

みすず書房の本は深い内容の良書が多いのですが、読むのに時間がかかります。しかし、この本は、すぐに読み終えました。この項続く

敗戦の認識、『日本の長い戦後』

橋本明子著『日本の長い戦後』(2017年、みすず書房)が勉強になりました。副題に「敗戦の記憶・トラウマはどう語り継がれているか」とあるように、日本の敗戦についての認識を分析したものです。

勝った話や成功した物語は、記録し思い出すには楽しいですが、負けた話と失敗した物語は、思い出したくない、触れて欲しくないものです。
しかし、戦争は国家が行ったことであり、その責任を忘れることはできません。被害者に対し罪を償う必要があります。また、再び起こさないためにです。その際に、空気のような国家があるのではなく、それを指導した責任者と実行した兵士、さらにそれを支えた国民がいます。
戦争指導者や軍人の回顧録、戦災に遭った国民の記録、それを基にした出版物がたくさん出ています。毎年8月15日には慰霊式典が開かれ、新聞なども特集を組みます。

この本が違うのは、それらの語りを3つの道徳観から分類し、それぞれの立場からの記憶と語りが「限界を持つ」ことを鋭く指摘するのです。
第一類型は、戦争と敗戦を、勇敢に戦って戦死した英雄の話としてとらえます。戦死者という犠牲の上に、現在の平和と繁栄があると、犠牲者に感謝します。終戦記念日の追悼行事や新聞の社説によくある言説です。しかし、これは開戦責任や敗戦責任から目をそらすことになります。「美しい国」の語りと、著者は呼びます。
第二類型は、戦争を、敗戦の犠牲になった被害者の話としてとらえます。空襲、原爆、さらには戦後の混乱での被害者です。人々の苦難を強調し、軍国主義に反対します。しかし、この語りも、日本が傷つけたアジアの人々の苦難からは、目をそらしています。「悲劇の国」の語りです。
第三類型は、戦争を、アジア各国での加害者の話としてとらえ、日本が行った侵略、支配、搾取を強調します。「やましい国」の語りと、著者は呼びます。この加害者としての語りは、日本人にとって悩ましいものです。
この項続く

女性社員の昇進

8月6日の日経新聞女性欄の「外資系は社員ファースト キャリアも働き方も自分次第」から。

・・・英系ロバートウォルターズ・ジャパンの16年の調査では、女性管理職比率が20%超の国内の外資系企業は29.8%に対し、日本企業は11.9%だ。日本企業の課題は人事評価の方法自体にも見え隠れする。
「日本企業は社員を年次ごとに相対評価で管理する。これが女性の働きにくさの最大要因」とリクルートワークス研究所の石原直子主任研究員。「何年目の社員なら何をやっているはず、という“普通”を歩む社員の中から出世する人をふるいにかける」(同)ため、出産育児で「普通の社員」と同様の働き方ができなくなった女性はキャリアアップの道から外れがちだ。会社に在籍し続けていてもそうなのに、一度離職してしまった人はなおさらだ。

アクセンチュア戦略コンサルティング本部の植野蘭子マネジング・ディレクター(39)は夫の海外転勤に伴って国内メーカーを退職し、専業主婦になった。帰国後「もう一度働きたい」と就職活動を開始したが、日本企業は門前払いだった。一方で外資数社から内定を得て、アクセンチュアで働き始めた。
女性の復職を支援するワリス(東京・港)は「日本企業は年数に応じてクラスや賃金が決まることが多いため、ブランクのある人の再就職は難しい。外資は個人の仕事の範囲が明確で、満たすスキルがあれば年齢など他の要素は関係なく採用される」と植野さんの再就職を分析する。
今の会社に入社後、上司からの食事の誘いを部下が断っているのを見て植野さんは驚いたという。「上の言うことを断らないとか担当外の社内イベントの準備とか、フルコミットして総合的に評価されるのが日本企業」。その後アクセンチュアで低い評価がついたこともあったが「どれも明確に自分の仕事に対するもので納得できた。仕事だけに焦点をしぼれた」・・・

「レジャーランド大学」

読売新聞月曜日の文化欄に、竹内洋・関西大学東京センター長が「大学の大衆化」を連載しておられます。7月30日は、1960年代以降の大学生の急増と、大学紛争後のシラケ世代についてでした。そして、1980年代に「レジャーランド大学」と呼ばれるようになったことが指摘されています。
・・・レジャーランド大学が可能だったのは、好景気が続き、就職に困らない時代だったからである。再び教授本位と経営本位大学が生き延びた。しかし、ここまでくると教授本位は研究も教育も手抜きが許される大衆大学教授天国に、経営本位は「マスプロ」(大量生産)といわれるようなST比(教員1人当たりの学生数)の高い利益至上主義の極みになる。大衆化に向き合わないだけではない。大学の教育そのものが空洞化し、研究業績の生産も停滞する。
海外からは日本の初等・中等教育は範とすべきものだが、日本の高等教育はジョークだとまでいわれるようになる・・・

7月31日の日経新聞夕刊、海老原嗣生さんの「就活のリアル」は、「日本の大学 どう変えるか」でした。
・・・日本の大学、それも文系の場合、その多くは名前こそ異なれど、法律・経済・経営・文学部からなる・・・会社に入れば仕事は、総務・人事・経理・宣伝・マーケティング、営業などとなる。これらの仕事で法律や政治、マクロ経済や文学がそのまま生かせるはずはない。だから、大学と社会は乖離していく。大学生が勉強しない一因もそこにあるだろう。これを変革するために、ドイツとフランスの、大学進学の資格審査を厳しくする一方で社会が求める人材をしっかり送り出す事例を、うまく接ぎ木した絵を示してみたい。

日本で数年前に議論されたグローバル人材を育てるG型大学と地域密着のローカル人材を育てるL型大学は、大学を学校ごとにG型・L型と分けてしまう方法だ。それは非常に厳しいだろう。私は、大学自体は今のまま学部構成も変えずに、大学2年からA課程(アカデミズム)とB課程(ビジネス)に分けることを提唱したい。
A課程は今までのカリキュラムとほぼ同じで、そこには将来、研究・公務・教育・士業などを目指す人が行く。専門教育が実務にかなり結びつくだろう。
一方、民間就職を考える人たちはB課程に進む。こちらはドイツの職業大学(専門大学)を範として、2年次には人事・総務・経理・営業・マーケティングなど実務を徹底的に教える。さらにB課程では3年次に上位1割程度を選抜してエリート教育をするようにする・・・
続きは原文をお読みください。

23度は涼しい。

今日の福島市は、昼でも24度。とても過ごしやすかったです。
早朝から27度の東京から来たので、新幹線を降りたときに、ひんやりと感じました。
「なんだろう」と思いましたが、駅前の温度計が23度を指しているのを見て納得しました。
午後からは雨が降って、さらに涼しくなりました。夕方には21度。こんなに寒いのかと驚きました。

朝、新幹線が福島県内に入ったら、かなり雨が降ったらしく、町並みや野山がぬれていました。
今年の夏は、豪雨災害の地域を除いて、雨が少ないです。野菜や果樹に影響が出ています。街路樹も元気がないですよね。
我が家の朝顔は、枯らさないように、キョーコさんが朝晩水をまいています。
雨は、偉大ですね。野山にまんべんなく水をまこうとしたら、どれくらいの労力が要ることやら。でも、適度に降ってほしいです。