日経新聞夕刊コラム終了

日経新聞夕刊コラム連載が、終了しました。全部で25回でした。
お読みいただいた方々に、お礼申し上げます。読まれた感想は、どうだったでしょうか。

(元)官僚という立場ゆえ、何かと制約はあります。でも、私は楽しく書かせてもらいました。行政の話ばかりでは、面白くないですよね。これまで考えていたこと、経験したことの中から、紙面にふさわしい主題を選びました。話題はたくさんあって、選ぶのに苦労しました。知人から「××については、書かないのか」という催促もありました。
「けっこう、好きなこと書いているじゃないですか」「官僚として、ギリギリのところを書いていますね」といった感想も寄せられました。ある人からは「新聞、それも一面に嫁さんの名前を書いて、ヨイショするとは」と、あきれられました(苦笑)。

25回は、次のように分類できます。
大震災関係 1、2、3、10回
官僚経験 4、5、6、8、9、14、15、22、23回
行政論 11、16、17、18、19回
私生活 7、12、13、20、21、24、25回

喜多・日経新聞会長から「途中で息切れしないように」との助言をもらっていたので、連載を始める前に、粗々の全体構想を考えました。
大震災の厳しい話、やや専門的な官僚論、高円寺のカエルと、固いものから柔らかいものまで混ざっていましたが、計算の上なのです。
話は具体的になるように、必ず私の経験を書き込んだので、「自慢話」ようになったものもあります。全回を通しての主題を、「官僚の生態学」「官僚が考えていること」としたので、どうしてもそのようになります。御理解ください。

締めきりに追われるのは、精神衛生上良くないので、原稿は十分な余裕を持って提出しました。
苦労といえば、決められた字数に納めることでした。でも、字数制限なしで長々と書くより、わかりやすい切れ味のよい文章になったと思います。
厳しい指摘と適切な助言をくださった編集者のSさんと、鋭い指摘をしてくださった校閲の方に、あらためてお礼を申し上げます。

新聞のコラムの連載は、かつて書いたことがあります。鹿児島県財政課長の時、地元の南日本新聞夕刊に、3か月間、10回書きました。 昭和63年、33歳の時です。若かったですね。もう30年も前のことです。このときも、親しい新聞記者さんに意見を聞き、加筆して活字にしてもらいました。

終わってしまうと、あっという間でした。また、このようなコラムを書く機会があれば、うれしいですね。
半年間、お付き合いいただき、ありがとうございました

現場を経験した強み、日揮・石塚社長

6月28日の日経新聞夕刊「私のリーダー論」は、石塚忠・日揮社長の「リスクは心の中にある」でした。

「日揮は大規模プラントを設計から工事まで一括で請け負うEPCと呼ぶ事業が主力です。これはリスク管理がすべてといってもいい。固定価格契約ですから、約束した期限で、予算内に仕上げないといけません。赤字が出たということは、リスクが顕在化したということです。リスク管理って一言でいうと簡単に聞こえますが、関係者の気持ちなんかも含めて、色々な要素が複合しています。昔から『リスクの中心に身を置け』と社内で言ってきましたが、もう一度そのカルチャーを根付かせる必要がありました」

「現場で何か問題があったとき、2週間たっても問題の本質を見抜けない人と、2~3日行って、少し話してパッとわかる人の2つのタイプがあります。自慢じゃないけど私は後者(笑)。装置の内容、作業量、工程を見ると、現場を見なくてもこの時点でこうなっているはずだというイメージが頭の中に浮かびます。仕事の内容から、このレベルのエンジニアが設計に従事していないと難しいとか、協力会社の能力はこのくらいないとできないといった自分なりのベンチマークも持っている。現場を自分の目で見て話を聞き、ベンチマークとの差を見つけることで、短時間で問題点を把握できるわけです」

「コストや技術的な問題もありますが、リスクは往々にして関係者の心の中に起因します。例えば、応援を要請して人を動員したのになかなかうまくいかない。実は応援に来た人は『私は応援ですから』と思っていて主体性がなかったということもあります。それなら人を増やしてもうまくいかない。関係者の心の中も含めて解決していかないと本当の解決にはなりません」
「こうしたリスクを見抜く嗅覚を身に付けるには、やはり経験が大きいですが、私は自分の専門である機械工学以外に、設計や化学、業界の動きなどについても好奇心の塊で興味を持ってきました。それがプラスになっていると思います。経験すること、そして人とよく話すことが大事です」

「形骸化でいうと、毎年、社長が今年の運営方針を作ってきたのですが、たいてい美辞麗句を並べ、どこかのビジネススクールから出てきたようなカタカナ言葉を使って、10ページぐらいの文書になります。でも、それを会議で説明した1週間後にはみな内容を忘れている。ある会議で役員に『去年の会社の運営方針は何だったっけ』と順番に聞いていくと、誰一人答えられませんでした。大事なのは有言実行でやる項目を簡潔に書くことです」
「私も就任後に社長の運営方針を作ってほしいと頼まれましたが、嫌だと言いました。そういう形骸化したものが一番嫌いだから。でもやっぱりそれでは運営上まずいということで、作ることにしたけれども、紙は1枚。そして言ったことは必ずやるし、やらせる。各事業本部もたくさん書いていたけど1枚にさせました」

原文をお読みください。石塚社長とは、先日、相馬のLNG基地竣工式でご挨拶しました。

慶應大学、公共政策論第11回目

公共政策論も、第11回目。政府の役割に入りました。
まずは、これまでの政府が果たした役割と、条件が変わったことについてです。
戦後日本の経済社会の発展と、バブル後の停滞について、数字やグラフで説明しました。わかりやすいグラフを示したので、高度経済成長を経験していない学生にも、理解しやすかったと思います。それに加えて、私自身の体験を交えました。

戦後の日本は、経済発展に成功しました。キャッチアップ型の経済発展です。安くて勤勉な労働力と、先進国に学んだ最新鋭の技術とによってです。政府・自治体は、潤沢な税収で、サービスやインフラを作ることに邁進しました。そして、それに成功しました。
しかし、右肩上がりの時代は終わり、経済は長期停滞し、人口の減少と高齢化が進んでいます。バブルがはじけて25年以上たち、人口が減り始めて10年になります。社会が大きく変わり、政府の目標や役割が変わりました。ところが、いまだに「昭和の発想」にとらわれている人が多いようです。

平成10年代を境に、新入社員・公務員が変わったという人が多いです。その背景は、この日本の経済社会の変化だと、私は思います。
バブル崩壊が平成3年。平成10年代に社会人となった人たちは、日本経済が発展した時代を知らないのです。それまでに入った人たちは、いわば「昭和の人たち」です。
そうすると、私などが、日本社会や政治、経済を話す際に、戦後から始めることは、もう古いのでしょう。平成から始めても、30年の長さがあるのですから。

慶應大学、地方自治論Ⅰ第11回目

今日は、慶應大学で地方自治論Ⅰの第11回目の授業でした。
今回は、条例について説明しました。条例の法的位置づけとともに、具体事例をたくさん見てもらいました。
地方公務員でない限り、具体の条例を見ることはないでしょう。それを知らずに、制度論をしても、理解しにくいですよね。かつては、法律との関係、横出しと上乗せが大きな論点だったのですが。
今回は、民泊法と条例、受動喫煙防止法案と都の条例(成立したばかりです)を例に、説明しました。また、これまで自治体が国に先導した政策なども。たくさんの事例に、学生たちもびっくりしたようです。

日経新聞夕刊コラム第25回

日経新聞夕刊コラム第25回(最終回)、「人間修養道場」が載りました。

世間知らずというか、甘やかされたというか。若いときは「たいがいのことは、自分の思い通りになる」と思っていました。母親も近所のおばさんたちも、先生たちも、みんな大事にしてくれました。で、キョーコさんとの新婚生活は、ショックでした。
その後、家庭と職場の両方で経験を積んで、褒めること、頭を下げることを覚えました。なぜ、もっと早く気づかなかったのでしょう。反省。

「職場は人間修養道場だ」と、教えてくださった先輩に感謝します。
私が経験で得た知識は、『明るい公務員講座』と『明るい公務員講座 仕事の達人編』に書きました。皆さん、経験して学ぶことなのですよね。でも、そんな簡単なことは、それが基本なのですが、本には書かれていません。

25回の連載を、どのような形で締めようかと考え、この話を最後に持ってきました。キョーコさんは、合計3回登場しました。この項続く