1月11日の日経新聞経済教室は、寺西重郎先生の「銀行業の未来 地方や新興企業に重心を」でした。そこに紹介されている、明治政府がとった地方政策が興味深いです。
・・・明治20~30年代に伊藤博文のとった経済発展戦略を手掛かりに考えてみよう。
幕末維新の動乱の後、近代日本の支配者となった藩閥政治家たちが当初とった政策は、殖産興業政策など中央主導の近代化政策の強行であった。しかし明治20年代になって伊藤たちが実権を握ると、政策の大転換が行われた。それまでの中央集権政治では排除していた地方の地主や商工業者を取り込み、農業と在来産業の発展を踏まえた工業化・近代化という新しい政策へ移行したことである。
伊藤とその下の松方正義、井上馨、山県有朋らは議会開設や憲法発布とともに、地方に高等教育機関をふんだんに配備し、地方の在来産業を重視する経済発展に転じた。それは国内では自由民権運動の高揚に押され、国際的には関税自主権のないままに自由貿易体制に組み込まれたという厳しい状況下で、やむを得ずとった政策でもあった。
しかし現在の視点からは、この政策は2つの重要な意味を持つ極めて巧みな戦略であった。第1は、政策課題が山積している状況下で、伊藤たちが中央と地方の発展戦略における役割分担に解決方法を求めたことである。国の近代化のためのリスクを伴い時間を要する近代工業の建設は、中央の政府と財閥が引き受ける。その代わり地方の豪商農には自らの力で在来産業を発展させて、雇用機会を提供し、外貨を獲得するという役割を担わせる戦略である。
第2に、伊藤たちが近代工業の建設にかかる時間を冷静に計算し、長期の時間軸政策を行ったことである。軽工業である繊維工業などは短時間で何とかなるであろう。しかし本当に必要な重化学工業を作り上げるにはかなりの時間がかかる。それまでは在来産業の働きに頼るしかないという読みである・・・
原文をお読みください。
明治政府は、内閣制度、憲法発布、国会開設といった中央政府の構築だけでなく、地方をどのように統治するかも重視していました。憲法より先に地方制度を作ったのです。地方を安定させること、地方政治の闘争を中央政治に持ち込まないことが、必要だったのです。