11月23日の日経新聞オピニオン欄、藤井 彰夫・ 上級論説委員の「日本経済になお97年の傷痕」から。
・・・すでに株式バブルが崩壊してから7年がたっていたが、バブル崩壊が日本経済にもたらした傷痕の大きさを国民全員が目の当たりにしたのは、1997年の晩秋だろう・・・
・・・金融機関と監督当局のなれあいにも批判が強まり、翌98年に接待汚職事件で大蔵省・日銀から逮捕者が出る。蔵相と日銀総裁は引責辞任。財政と金融監督は完全に分離され98年に金融監督庁(現金融庁)が誕生した・・・
・・・大蔵省の護送船団方式の金融行政と財政再建至上主義への不信。97年の金融危機は大蔵支配という言葉に象徴される霞が関の官僚主導の秩序を揺るがし、その後の政治主導の流れを決定的なものにした。
官邸主導のはしりとなった小泉純一郎政権、民主党への政権交代、そして安倍晋三政権へと続く政治主導の政策運営に向かう原点は、97年秋の危機だったのではないか・・・
・・・97年危機は「大蔵省にまかせておけば安心」という時代の終わりを告げた。「それでは誰にまかせればいいのか」。20年たった今、この問いへの答えはまだ出ていない・・・
若い人は、この20年間の出来事を知らないと思います。また、習っていないでしょう。
この記事は、大手金融機関の破綻から20年を取り上げたものですが、そのうち、官僚主導から政治主導への変化に関するところだけ引用しました。原文をお読みください。