中根千枝著『タテ社会の力学』

先日の『タテ社会の人間関係』の続きです。集団の分析としては、『タテ社会の力学』の方が、より詳しい分析をしています。詳しくは読んでいただくとして。今日は「鋭い指摘だなあ」と苦笑した文章を紹介します。

・・・実際、日本社会では、相当地位が高かったり、有名な人々の中にも、相手が誰であろうと得意になって一座の話題を独占してしゃべりつづける社交性を欠いた人々が少なくない。また、うちとけた席では、その中で相対的に地位も低く、年齢も若い人が自己中心的な話に終始したりする。そのいずれの場合も、話者が、その場を小集団的集まりと認識することからくる現象と思われる。つまり、自己中心の振る舞いが許される環境に自己がおかれていると思っているわけである・・・p94。

・・・事実、集まりでよくしゃべる人の話には、いかに自己中心の話題が多いかは驚くほどである。日本人の自己顕示欲というのは、こうした場においては、他に類例をみないほどである。相手がいかなることに興味を持っているか、自分の話に興味があるかないかなどということは、ほとんど考慮に入らない。往々にして、その集まりにおける自分の役割さえも忘れている。まさにお酒に酔ってしまっているのに似た現象である。もちろん、お酒が入れば、この傾向は倍加することはいうまでもない・・・p95。

・・・自己中心的な話というのは、記述的要素が多く、その人の感情の流れに沿ったもので、反論しにくいものであるために、きく方も知的な刺激を受けることも少ない。したがって、ただ物語をきくということになる。ときどき合いの手を入れるくらいである・・・
・・・これでは、反論を楽しむなどという、同席している全員が参加しうる知的な議論の遊びはとうていもちえないことになる・・・(この引用は順番を変えてあります)p96。

私も、決して他人のことを批判できません(反省)。自分のことを棚に上げて、これは、常々感じていたことです。
私は自治省に採用されましたが、自治体への出向と内閣府への出向のほか、省庁改革本部や復興庁、総理官邸などで、他の省庁の職員と仕事をする機会が多かったのです。その際に、自治省で「身内」と話すことと、ヨソ者の中で話すことの違いを感じました。
前者はお気楽です。何を言っても許してもらえると、思っています。後者は、そうはいきません。
もっとも、これは公務員仲間ですから、社会から見ると「同じムラ社会」ですが。政治家や民間人、マスコミの人と話す際には、もっと意識します。その際の会話は「真剣勝負」で、気を遣います。その一端は、「明るい公務員講座」でも紹介しました。

少し視点を広げると、1つの会社に勤め続けることは、ムラ社会で暮らすことにつながります。これが、視野を狭めることになります。ぬるま湯と同じで気持ちはよいのですが、内向き志向(思考)では改革が遅れます。経営者たちが、その欠点を指摘しています。「純粋培養の時代は終わった」などで、紹介しました。