これも風化?

新 もういちど読む山川 日本史』(2017年7月、山川出版社)は、要領よく日本史をまとめてあります。学生時代に、山川出版社の歴史教科書のお世話になった人も多いでしょう。
ところで、学生時代に習った歴史は、第二次世界大戦あたりまででしょう。「明治維新で終わった」という人もいますよね(笑い)。この本は、最近まで書かれていて便利です。

この新版の最後のページに、東日本大震災も載っています。ところが、大震災と原発事故が、2012年(平成24年)に起きたと書かれています。う~ん。
先日(9月2日)、出版社に電子メールで問い合わせました。
早速、メールで「下記のお問い合わせを受け付けました。ご回答まで少々お時間をいただきます。メールまたはお電話にて回答させていただきます」と来たのですが、まだ回答はありません。
風化としたら、残念なことです

大震災から6年半

今日9月11日で、大震災から6年半が経ちました。各紙が復興の現状を取り上げています。
NHKは、仮設住宅の入居者数を解説していました。「東日本大震災6年半 仮設住宅に今も2万人余
・・・岩手、宮城、福島の各県のまとめによりますと、仮設住宅で暮らす人はことし7月末の時点で岩手県で8142人、宮城県で7148人、福島県で6210人と3県で合わせて2万1500人に上っています。これは3万人を超えていたことし3月末時点と比べおよそ30%減少しています・・・

急速に進んでいることがわかります。住宅建設は、計画策定、用地買収、土地の造成(山を切り開いたり土地をかさ上げする工事)、基礎工事に時間がかかるのです。そこまで進むと、上物の建設は早いです。だから、ここに来て住宅が次々完成して、移ってもらえるのです。

借り上げ仮設(アパートなど)に入居している人を含めた避難者数は、8月時点全国で約9万人、今年3月の12万人に比べて約3万人減っています。
高台移転による宅地造成は、計画戸数1.9万戸に対し、1.4万戸が完成しています(平成29年6月末時点)。災害公営住宅は、計画戸数約3万戸に対し、2.6万戸が完成しています。一部を除き、平成31年春(1年半後)には、すべて完成する見込みです。
私たちの任務は、避難者の方に一日も早く不安定な仮設住宅を出ていただき、恒久的な住宅に移ってもらうことです。

故・河合常則先生

今日は、河合常則先生(元参議院議員)の弔問に、富山県南砺市まで行ってきました。葬儀は明日なのですが、私の都合で今日お邪魔しました。
私が富山県庁総務部長の折(平成6年から10年)、先生は県議会、自民党県連の長老として、議会を仕切っておられました。困ったときには(そうでないときも)何かと相談し、助けていただきました。総務部長を4年間、充実し楽しく過ごせたのは、先生のおかげです。城端町のお祭りにも、呼んでいただきました。ご自宅の2階で、下手なフルートを吹いたことも、懐かしい思い出です。
昨年パーティーを開かれ、参加しました。ご病気であることを明らかにされていましたが、残念なことです。ご冥福をお祈りします。

行く途中で、砺波平野の稲穂の波を見ながら、奥の細道の句「あかあかと日はつれなくも秋の風」を思い出しました。
調べてみると、芭蕉が高岡から金沢に入った折の句だそうです。季節はやや遅いですが、場所はちょうどだったのですね。

建築から見る日本の政治

東大出版会のPR誌『UP』9月号の、隈研吾さん執筆「心と体の建築へ―『もがく建築家、理論を考える』に寄せて」が、勉強になりました。
戦後日本の建築家と建築様式の歴史ですが、私は、政治学として読みました。日本が欧米に追いつくために国家を挙げて取り組んだこと、追いついたこと(バブル崩壊)でその仕組みが限界だと分かったこと、次の仕組みを模索していることです。それが、建築様式・建築家の代替わりとして説明されています。非常にわかりやすい分析です。原文をお読みください。

日本の建築の世界で、隈さんは第4世代の建築家と呼ばれます。第1世代は丹下健三や前川国男らで、東大建築学科の出身です。彼らは戦後建築界を担い、モダニズム建築(コンクリートと鉄でできた工業化社会の建築様式)の第1世代でした。
欧米では、モダニズムの巨匠、コルビュジエ、ライトらは、20世紀の初頭に登場します。国家的正統な建築教育を受けず、19世紀までの建築様式を批判して新しい流れを作ります。それまでの主な発注者が国家だったのに対し、20世紀の工業化の主役である民間向けの建築へと転換するのです。権威主義的で装飾のある建物から、効率優先の建物に変わります。

「一方日本は、欧米が先行した工業化を国家のイニシャティブによって一日も早くキャッチアップしなければならなかった。かくして、東大卒が、その主役を務めるなりゆきとなったのである」。
そして、日本と自民党政権が、国家による公共工事によって、工業化と経済活性化を進めたこと。欧米各国のような、二大政党によるイデオロギー対立(階級対立、大きな政府か小さな政府か)は、日本にはなかったこと。代わりに、地方間の税金の取り合い、公共工事の奪い合いのバトルがあり、その調整作業が自民党政治であったと、指摘します。

本論では、この後、第2世代以降の紹介が続きます。
「この前後日本のOSの恩恵を最も受けたのが」第2世代の建築家、槇文彦、菊竹清訓、磯崎新、黒川紀章でした。この戦後日本のシステムは、バブル経済の崩壊によって、限界を露呈し、それに変わるシステムを模索するのが、第3代4世代の建築家の主課題になりました。一つの回答が、海外に飛び出していくことでした。
しかし、その「日本への無関心、無責任」「日本を捨てて、忘れたフリ」は、3.11の大災害と東京オリンピックで状況が変わります。

「1964年の東京オリンピックが、戦後日本システムを見事にヴィジュアル化して世界に提示したように、2020年のオリンピックは、大災害後、原発後の日本をはっきりと具体的に世界に見せなければならない。それができなければ、もはや建築も、建築家も、世の中から用がないものとして、忘却されるに違いない・・・
・・・それは19世紀から20世紀にかけて、建築が経験した大転換、国家から民間へ、美から効率へという大転換以上の、大きくて根本的な転換を覚悟しろということである」。

建築家の役割を通して提示された、日本社会が直面している大きな課題です。政治家と官僚はその第一の責任者です。原文の「それができなければ、もはや建築家も・・」という指摘は、私たちにこそ当てはまります。

お母さんはマンマ、ではお父さんは

昨日、「イタリアでも引きこもり」の記事で、お母さんを「マンマ」と呼ぶこと、そして、お父さんをどう呼ぶか知らないと書きました。

ある読者から、「それはゴッドファーザーですがな」と、笑える答えをもらいました。この有名な映画も古くなったので、見ていない人は、分からないでしょうね。確かに、イタリア(系移民)の話ですが。