国民の一体性の崩壊

読売新聞7月31日の「論壇誌」(文化部・小林佑基)から。
・・・ジャーナリストの会田弘継氏は、政治学者の宇野重規氏との対談「ポスト真実時代の言語と政治」(『中央公論』)で、アメリカでは格差や不平等の進行で、かつて貴族と庶民の間にあったような、文化的な断絶が生じ始めているかもしれないと述べた。宇野氏も近年、国民は一体だという、国語によって作られた近代国家のストーリーが通用しなくなっていると指摘。国民の一体性を確認する言葉が嘘くさくなり、国内の他者への想像力も及ばなくなっているとした。大声の極論ばかりが称賛され、中庸の人々が沈黙することで、相手を説得しようとする言葉や、少しでも妥協できる基盤を作ろうという努力が失われたと嘆く・・・
原文をお読みください。

近代革命で、封建制の身分制社会を壊すことで、平等で自由な国民国家を作りました。熱狂的な革命を伴ってです。フランス革命やアメリカ独立革命から200年余り。国民国家は、耐用年数を迎えたのでしょうか。
西欧では経済発展が滞り、移民の流入が社会に分断を持ち込み、国民の一体性という神話が維持されにくくなりました。独裁国家ならずとも、自由主義・民主主義国家でも、何か「敵」を設定し、それへの戦いに国民を誘導しないと、一体性は保てないのでしょうか。
敵でなく、目標を掲げて国民を導くことで、社会の安定と一体性を保つことも、政治の役割でしょう。

明るい公務員講座・中級編31

『地方行政』連載「明るい公務員講座・中級編」の第31回「仕事の仕方を変える(1)キャッチアップ型の成功と限界」が発行されました。
なぜ、世界一と言われた日本の企業が順位を落とし、行政が評判を落としたか。それは「うまくいったが故に、ダメになった」というのが、私の見立てです。
官僚主導の国づくり、日本的労働慣行、集団主義。この3つが、キャッチアップ型の時代には、とてもよく機能しました。ところが、先進国に追いついた時点で、この長所が短所に反転したのです。
目標を達成したことで、目標が変わり、仕事の仕方も変える必要があったのです。しかし、日本はまだその転換に成功していません。処方箋は、次号に書きます。
今回の内容は、次の通り。
日本的経営は世界一だった、官僚主導の国づくり、日本的労働慣行、集団主義、社会の安定、日本的経営の終焉

性格の違い、人生への影響

鈴木信行著『宝くじで1億円当たった人の末路』(2017年、日経BP)がおもしろかったです。
本屋で見たときは、表紙を見て「雑学」「とんでも本」の一種かと思って、手に取りませんでした。書評で取り上げられていて、買って読みました。
表題になっている、1億円当たった人の末路は、想像がつきました。勉強になったのは、ほかの人たちです。
子どもにキラキラネームをつける親は、とんでもない人でなく、中流以上で真面目な人が多いこと。自分は没個性的な人生を余儀なくされたが、子どもには個性的な人生を送って欲しいと思って、そのような名前をつけます。ところが、子どもには「周囲にあわせて生きよ」と抑圧してしまうのだそうです。子どもは、あまり幸せではないようです。ところが、最近はそのような名前が多くなって、目立たないとか。
友達がいない人は、不幸な人生だと思われます。ところが、一人で生きていける力のある人は問題なく、「友達を作らなければいけない」と思い込んで群れようとしている人の方が問題だとか。へえ!と思う事例がたくさん載っています。
取り上げられているのは、何かに遭遇した人(宝くじにあった人)の将来がどうなったかというより、「このような性格の人はこうなる」という性格による人生の違いが多いようです。

「おわりに」に書かれていますが、この本のもう一つのテーマは、社会や世間にうまく同調できずに悩んでいる人へのエールです。
同調圧力が強い日本で、周りにあわさなければいけないと思って悩んでいる人が多いのです。それにあわせようとする人が、友達を作らなければいけないと思い、自分はそうだったけど子どもにはそうなって欲しくない親が、子どもにキラキラネームをつけるのでしょう。
日本社会論として勉強になる本です。

西へ東へ

昨日は宮崎、今日は福島往復。車窓から見える田んぼの稲は、青々と育っています。トウモロコシや大豆(枝豆)も、大きくなりました。
梅雨に戻ったような天気だなと思っていたら、関東各地では猛烈な豪雨が降っていたのですね。困ったものです。
車中では、執筆がはかどりました。大学の授業が終わったこともあります。
連載「明るい公務員講座中級編」は、職場の3大無駄を書いています。会議、資料作り、パソコンです。日頃「おかしい」と思っていることを文章で整理したら、どんどんと書けます(苦笑)。乞うご期待。
8月発行分まで、書きためることができました。書けるときに、書いておきましょう。

官邸と官僚の関係

7月31日の朝日新聞、松下秀雄・編集委員の「Monday解説」「「記憶ない」「記録ない」政権に寄り添いすぎ? 官僚はだれの奉仕者なのか」から。
・・・93年の非自民の細川政権誕生まで38年間続いた自民党政権下の省庁人事は、官僚自身が決めていた。
当時も人事権は閣僚にあったが、短期で代わる「お客さん」。省庁は割拠し、官邸の力は弱かった。官僚は法案を通すため、自民党の族議員やそれを束ねる派閥実力者に気を配り、議員たちは影響力をふるったが、そこに人事権はない。分散する権力のはざまで、官僚は自律を保った。
その中で育ったのが、族議員や業界とのもたれあいや癒着。90年代によくいわれた「政官業の鉄のトライアングル」だ。それは官僚の威勢の源泉でもあった。
細川政権が生まれ、政権交代の時代に入ると、三角形は崩れだす。94年の政治改革をきっかけに、官僚の後ろ盾だった派閥や族議員は次第に力を失い、官邸に権力が集中。官僚の視線も官邸に向かう。だがかつての派閥や族議員とは違い、政権は頻繁に代わる。政権に近いとみなされた官僚が次の政権で代えられる例を含め、政治主導の人事が目立つようになる。
そして首相や官房長官が部長級以上の官僚人事を差配しやすくする内閣人事局が発足。強い力をもち、長期化する安倍政権に寄り添いすぎる官僚が問題化し、同時に官邸の手法への反発も生まれている・・・

・・・牧原出・東京大教授(行政学・政治学)は「90年代は朝日新聞も含め、『横暴な官僚』をたたいたが、これからは官僚を『全体の奉仕者』に育てる方法を考えなければならない」と唱える。官僚の力を生かす道を考え、政治主導をバージョンアップする提案である・・・