しばらくお休みを取っていた肝冷斎ですが。どうやら、西日本に遠征していたようです。
名古屋、大阪、福岡と、プロ野球(1軍、2軍)の試合を、はしごしています。その熱意と行動力には、頭が下がります。
月別アーカイブ: 2017年8月
変化した政と官の関係
8月13日の日経新聞、大石格・編集委員のコラム「変わったのは政官関係か」から。
・・・政官関係に詳しい立命館大の真渕勝教授の『官僚制の変容――萎縮する官僚』などの論考によれば、官僚の思考・行動様式は図に示した流れで変化してきた。
政治主導か官僚主導かだけが注目されがちだが、官僚が社会との距離をどう捉えているのか、すなわち政策判断を役所だけでするのか、利益団体などの意向をくみ上げようとするのかも変化してきたそうだ。
戦後しばらくの国士型官僚の代表例は、農林省の小倉武一、通産省の佐橋滋らである。佐橋に想を得た城山三郎著『官僚たちの夏』を読んだ方もおられよう。
自民党政権が長期化すると、役所と族議員が一体となって利益の配分を差配する調整型が登場する。さらに政治主導が強まると、調整は議員に委ね、言われたことしかしない吏員型に変化したという分析だ・・・
・・・政と官の綱引きは決着済みだったとすると、ヒラメ官僚が近年、急増したようにみえるのはなぜか。仮説を提示したい。それは「変わったのは官僚ではなく、政治だ」というものだ・・・
加藤創太・東京財団上席研究員の「権力の集中が「忖度」を呼ぶ〜官邸主導時代の政治ガバナンスのあり方」(8月9日)から。
・・・行政機関については、一連の「政治主導」のスローガンの下、官邸は内閣人事局を通じて幹部人事権を握った。報酬などで差異を設けづらい行政機関において、公務員の最大のインセンティブ(誘因)となるのは人事である。上司の心の内を「忖度」して動ける人間が「できる」と評価されるのは、官僚組織も企業も同じである。かつて各省庁の幹部への「忖度」を競い合っていた官僚たちが、今は官邸への「忖度」を競い合うようになったのは当然の帰結だ・・・
・・・権力集中の弊害を防ぐには、権力へのガバナンス体制の構築が何より重要となる。数年に一度の選挙による政権交代に政治行政のガバナンス(統治)のすべてを託すのではなく、各種の政治行政制度を総合的に見た上で、あるべき日常的なガバナンス体制を判断していかなければならない・・・
それぞれごく一部を引用したので、原文をお読みください。
美術館巡り
最近、原稿と講義の準備で、美術館には行けてなかったのですが。夏休みに入ったのと、連載を少し書きためたので、美術館巡りへ。先週土日と今週3連休で、次のところなどを回りました。
アルチンボルド(上野、西洋美術館)
川端龍子(広尾、山種美術館)、地獄絵(日本橋、三井記念美術館)、レオナルドとミケランジェロ(丸の内、三菱一号館)
タイの仏像(上野、国立博物館)
ボストン美術館(上野、東京都美術館)、芸大130周年展(上野、芸大美術館)など
それぞれに、見応えのある展示でした。東京で、これだけのものを見ることができるのは、ありがたいですねえ。それぞれの場に行って見ると、もっと気分に浸れるのでしょうが。便利さには代えられません。
最近は、紹介ビデオを上演している会場が多いです。展示だけでは分からないことを、紹介ビデオを見るとよくわかります。
しかし、1日に3つも回ると、足はくたびれるし、何を見たか混乱してしまいます。反省。
政党政治と官僚政治
今月の日経新聞、私の履歴書は、高村正彦・自民党副総裁です。8月10日の記事から。
・・・90年代前半の政界では、政治改革の是非が最大の争点になった。中選挙区制から小選挙区制に移行すれば全てがよくなる。無責任な議論が横行した。
同じ党の中で切磋琢磨し、世代交代を図る。私は中選挙区制が大好きだった。派閥が衰退し、若手を育てる場がなくなった。最近、よくいわれる小選挙区制の弊害を私は当時から指摘していた。
ただ、柳沢伯夫さんの「政党政治を確立しないと、ばらばらの政治家は一枚岩の官僚組織に分断される。官僚政治を打破するにはこれしかないんだ」との言葉を聞いて、一理あると思った・・・
戦争孤児
8月10日の朝日新聞オピニオン欄は、金田茉莉さんの「孤児たちの遺言」です。
・・・72年前の終戦の後、東京・上野の地下道は浮浪児であふれ、数え切れない子どもたちが餓死し、凍死しました。生きた証しすら残せず、「お母さん」とつぶやき、一人で死んでいった・・・浮浪児と呼ばれた子どもの大半は戦争孤児です。学童疎開中に空襲で家族を失った子もたくさん路上にいました。だれも食べさせてくれないから、盗みを働くほかなかった。不潔だ、不良だと白い目でみられた。「浮浪児に食べ物をやらないで」という貼り紙まで街頭にありました・・・
・・・当時5年生だった男性は、集団疎開から戻った上野駅で迎えがなかったそうです。パニック状態になり、焼け跡で家族を捜しても見つからず、日が暮れて駅に戻りました。「生きていないと親に会えない」と思い、盗みを始めたと打ち明けてくれました。同じ境遇で一緒に地下道にいた3年生の男の子は、何日間も何も口にできず、「お母さん、どこにいるの」と言った翌日、隣で冷たくなっていた、と。いったん親戚や里親に引き取られても、重労働や虐待に耐えかねて家出をして、浮浪児になった子も数多くいました・・
戦争孤児については、このページでも、何度か取り上げたことがあります。政府として十分な支援をしなかった、というより責任を果たさなかったことについてです。
何度読んでも、涙が出てきます。ひどいことをしたものです。両親を失い、だれも助けてくれない。子供が一人では、生きていくことはできません。ひもじい思いをして、両親を思い出しながら、ある子どもは生き抜き、ある子供は餓死していったのです。
戦争中も大変な暮らしを強いられましたが、身寄りをなくした子供たちにとっては、戦後の混乱期のほうが過酷でした。大人たちも、生きていくのに精一杯だったのですが。
政治と行政の責任を痛感させられます。
東日本大震災でも、大勢の遺児や孤児が生まれました。子供たちが困らないように、行政やNPOによる支援がなされています。もっとも、心の傷を埋めることはできません。