7月19日の朝日新聞オピニオン欄、「説明責任はどこへ」。
井上達夫・東京大学教授の発言から
・・・アカウンタビリティーは説明責任と訳されますが、私は「答責性」と言っています。ただ説明すればいいというのではなくて、きちんと説明しないと責任を問われて首が飛ぶという緊張感ある概念です。政治家の場合は選挙で落とされ、官僚の場合は解任されたり左遷されたりする・・・
小田嶋隆・コラムニストの発言から
・・・説明責任という言葉をメディアが使う場合は、こういう人にこういう種類の説明責任を問うと、範囲と対象を明確にする「報道責任」があるのではないでしょうか。
日本社会では、アカウンタビリティーはメディア側では首を要求する言葉になり、責められる側では誰の首を差し出せば決着するのかを考える言葉になっているような気がします。
アカウンタビリティーを「説明できる状態での業務遂行を推奨する概念」と表現するべきだと思います。少なくとも、自信を持って説明できる状態で自分の職務に取り組むということです。米英的な民主的で明快な組織運営の中で、個人が緊張感を持って組織と対抗していくなかで出てくる発想です。
しかし、日本の組織は誰の業務なのかがわからず、「みんなでやっています」となっています。問題が起こった時に誰が責任を取るのかといえば、その時に偶然、課長の椅子に座っている人だったりします。単なるトカゲのしっぽ切りのようになって、政治家でいえば秘書に責任を取らせるようなことが起こります・・・