大型連休、2

東京は、今日も晴れ渡り、良い天気。気温は7月上旬並みとか。皆さんも、良い季節の休日を、楽しんでおられるでしょうね。
私は1週間近く遊んだので、今日は閉じこもって連載の執筆。連休前に、第2章第2節を書き上げ、ほっとしたのもつかの間。次の締めきりが迫ってきます。一つのことをするためには、何かを切り捨て、あきらめなければなりません。とほほ・・仕方ありませんね。原稿は、新しい節「人は外見で判断される」に入りました。思いつくことはいろいろとあるのですが、どのような組み立てにするのかを、試行錯誤しています。形になるには、しばらくかかりそうです。
肝冷斎は、関西遠征を敢行中のようです。

福澤武さん、社風を変える3

2002年9月、新しい丸ビルが開業します。
・・・それは社員の創意と改革の結晶でもある。
「これはビル部門だけの仕事ではない。支店を含めて全社から意見を出して欲しい」。建て替え計画をを決めたとき、社員たちに訴えた。丸ビルの建て替えは、新しい三菱地所をつくることでもあった・・・(4月29日掲載分)
福澤さんは、さまざまな「慣行打破」を進めます。建築工事を、コスト削減と透明な取引のために、建設会社の入札に変えます。テナント集めも、説明会に来た会社から選ぶだけでなく、入って欲しい店に出店をお願いにいきます。路面店が外壁や窓の装飾を変えることも認めます。
・・・当時は「休日の丸の内はゴーストタウン。商売にならない」と言われた。営業部隊では「上から下までオフィスの賃貸にしてくれ」という声も根強かった。そんな常識を打ち破ったのは、創造性に富む若い社員たちだった。
社内の空気は社長に就任したときとは別物である。ある営業の役員は取締役会でテナントの選定の理由を自信満々に説明していたが、何のことはない。「廊下でウチの若い社員に聞いてみました。私は知らない店だけれど、大丈夫です」と力説していた。
「ビジネス・オンリー」ではない街をつくる。米国駐在時代に学んだ教訓である。そんな意思の下で社内が一体となって動いていた・・・(4月29日掲載分)
さらっと書いておられますが、100年続く会社の前例を打破すること、職員の意識を改革するには、大変なご苦労があったことと思います。本になる際には、そのあたりのことを書き込んで欲しいですね。でもそれは、福澤さんの哲学には、ないのでしょう。ご本人は、丸ビル改築完成を待たずに社長を退き、後任者に花を持たせるのです。

文化の違いによる経済発展の差

ピーター・バーガー著『退屈させずに世界を説明する方法―バーガー社会学自伝』(邦訳2015年、新曜社)。この本は、山本泰先生の最終講義(3月21日)で、教えてもらいました。p274~
・・・われわれは政治文化という一般的な言葉とのアナロジーを意図して、経済文化という言葉を用いた(というか、たぶん作った)。われわれはめざましい現象になりつつあるものにまず注目することによって、この問題に取り組もうと決めた―東アジアの偉大な経済的サクセスストーリーがそれである。
この研究を始めた1980年代中葉、大陸中国はまだ毛沢東主義の経済的失敗による苦しみの最中にあった。サクセスストーリーはもちろんまず日本に、次いで「四小龍」―韓国、台湾、香港、シンガポール―にやってきたわけだが、おそらくいちばん興味深いのは海外へ渡った中国人たちであって、彼らは間違いなく世界で最も経済的に成功した民族集団である。この成功を説明してくれる文化的要因とはなんであろうか・・・
・・・この最初のプロジェクトに関するレディングの著書『中国資本主義の精神』は1990年に出た・・・彼はまた一つの最優先理由―家族のメンバーだけが信頼できる唯一の人間だという―のために家族を中心にすえざるを得ない価値観を描いた。このため、同族会社が中国の理想的ビジネスだということになる。ほとんど定義上、それは相対的に小規模にならざるを得ない―過度に大規模になれば、それはひとが信頼しうる同族の範囲からはみ出してしまうからだ。大規模な中国企業もあるにはあるが、そうした企業もその中心的オフィスは小さなまま維持される傾向が強い―たとえば海運会社がそうである。
日本の経済文化との対比は衝撃的である。日本人は大規模な組織を構築するのが非常に得意だからだ。これとは対照的に、いちばん成功した中国ビジネスは小規模で、家族を基盤にしており、組織がインフォーマルであり、したがってまた非常に柔軟性に富む・・・

若冲展

今日は決心して、上野の「伊藤若冲展」へ。混んでいるかなと思ったら、都美術館の前にはとんでもない長い列が。最後尾で整理している職員に聞くと、90分待ちとのこと。「いつだったらすいていますか?」と聞くと、「毎日大変な人出です」と言われました。夏を思わせる日差しの下、一瞬ひるみましたが、期間が短いこともあり、キョーコさんが「見る」と宣言。80分並んで、入場できました。
まあ、良くこれだけも細かく書き込めたものですね。そして、色の鮮やかさ。ここ数年で、何度か見ていますが、いつ見ても感動します。並んだだけのことはあります。
若冲と言い、カラバッジョと言い、学生時代には知らなかった、教えてもらわなかった画家です。

福澤武さん、社風を変える2

日経新聞「私の履歴書」、福澤武さんの続きです。
福澤さんは、丸の内の再開発をされるまでに、三菱地所の「殿様商売」を徐々に変えていかれました。徐々にといっても、大変なご苦労があったでしょう。
かつて、1つのビルに同じ業種の店を複数入れることを禁じる「1業種1店舗」の原則があったそうです。うなぎ屋が入っていると、後から入った日本料理屋はウナギ料理が出せないとか。テナントの要望を聞くことなく、古い原則を守っていたのです。この原則を変えるには、現場の管理事務所の副所長ではできず、本社に戻って部長となって、担当役員に了解をもらって変えることができました(4月23日掲載分)。
日本の地価神話(右肩上がりが続くはずだ)と、丸の内という超一等地を抱えていることで、会社と社員は「改革意識」は薄かったでしょう。福澤さんは、その当たりのことを、詳しくは書いておられませんが。丸ビルなどが老朽化してきたこと、テナントの丸の内離れが起きていたこと、そしてバブル崩壊で、それまでの常識が崩れ去ります。
・・・ビルの営業部門はずっと増収増益だったのに、とうとう減収減益に陥った。テナントを引き留めるための値下げの連続に社内はとまどっていた。収益予測を調べさせたとき、部下の返答に絶句した。
「ウチの情報システムは値上げしか想定していません。値下げのときは計算できません。手作業になります」
苦笑いしか浮かべられなかった・・・(4月24日掲載分)。