NHKのインターネットで、東京電力福島第一原発の現在の状況を見ることができます。2015年6月に撮影したものだそうです。
原発敷地の中に、検査を受けて、防護服を着て入る様子も、写っています。免震重要棟の中、燃料棒取り出しが終わった4号機の中など。一般の方は見ることができないところを見ることができます。私も、何回か視察していますが、4号機の中は、入ったことがありません。
クリックすると、簡単な解説と、事故直後の写真との比較も見ることができます。わかりやすいです。映像とインターネットの機能を発揮しています。
360度パノラマなので全体が見えるのですが、少し時間がかかるのと、目次がないのが難点です。この画像とともに、(動かない)写真を並べて、見出しを付け、解説を付けてくれると、よりわかりやすいのですが。
月別アーカイブ: 2015年12月
先進国で最も多い国政選挙
日経新聞1面連載「税金考」12月6日に「選挙のわな。先送り誘発、再考の時」から。
・・・「選挙が多すぎる」。早稲田大学の日野愛郎教授はこう指摘する。
戦後70年の国政選挙の回数は、日本47回、米国35回、フランス29回、英国19回、ドイツ18回だ。「どんな国でも選挙を意識すると政治家は痛みのある改革に動けない。日本の政治制度は改革の先送りを誘発しやすい構造だ」(日野教授)
必要な政策をきちんと実現するには政治の安定が不可欠だ。ドイツでは議会の解散を強く制限。内閣不信任案の決議の前に後任首相を選ぶことを義務付けた「建設的不信任制度」がある。任期満了前の議会解散は戦後70年でわずか3回。日本は25回だ。
痛みの分配が迫られる時代。日本の政治制度改革に深く関与してきた佐々木毅元東大総長は1年半おきに国政選挙がある日本の政治についてこう思う。「長期的な課題が結局、1年ごとの話に翻訳されてしまい、国家百年の計が語られることがなくなってしまった」・・・
ブルデュー2
加藤晴久著『ブルデュー 闘う知識人』を読んで、なるほどと思った一番の点は、ブルデューの生い立ちとその主張との関係です。
ブルデューは、フランス南西部の田舎の出身です。そして、地方の中心都市の学校へ、次にはパリへとフランス最高の秀才コースに進み、エコル・ノルマル・スュペリユールを卒業します。このエコル・ノルマル・スュペリユール、特に哲学科のとんでもないエリート扱いについては、追って紹介しましょう。その過程で、田舎とパリ、農民とエリートとの格差に気づき、たぶん悩んだのでしょう。「文化資産」という概念は、そこから生まれたのだと思います。
加藤先生は、次のように書いておられます。
・・・日本でもそうだが、どこの国でも、芸術・学問の分野で、大きな業績を残す人たちには、地方の出身者が少なくない。地方に生まれ育った人間は首都に強く憧れる。それこそ首都に乗り込んで「一旗揚げたい」という野心を抱く。そして、頭角を現すには主流に挑戦する「前衛」にならざるをえない。変革はつねに中心に対する周縁からの挑戦、異議申し立てにはじまる・・・ブルデューも、フランスのど田舎の出身である・・・p17
ブルデュー自身は、次のように書いています。
・・・フランスでは辺鄙な地方出身であることはーその地がロワール川以南である場合はとくにー植民地状況のうちに同等物を見いだしうるようないくつかの特性を付与するものです・・・これがフランス社会の中心的諸制度、とりわけ知的世界に対するひじょうに特殊な関係をつくりだすのです。さまざまな形の隠微な社会的レイシスム(注)が存在するために、ある種の透徹したまなざしを養います・・・p15 (岡本注 人種差別の意味でしょうか)
この文章も、一度読んだだけでは、理解しにくい文章です。
ブルデューは、『自己分析』で、次のように自らの学校生活を振り返っています。町の寄宿舎に入ったとき、町の子は、田舎者をいじめるのです。
・・・こうした双対の経験は学校世界での高い評価と社会的出自の低さとの間の大きな隔たりの結果であるところの、緊張と矛盾を孕んだ分裂ハビトゥスの形成をいっそう促すことになった・・・p155
被災者生活支援本部の写真
被災者生活支援本部
一番大変だった頃の写真を、職員が探してくれました。当時、「記録になるから」と、執務風景を写真に撮ってもらいました。これらの写真は、内閣府のサイトに「被災者生活支援本部」のページを残してあるので、そこに載っているのですが。データ量が小さくて、印刷したりするとぼけてしまいます。もう少し大きな写真で、ここに残しておきます。もっとも、私が写っていない写真が多いのですが。(2015年12月5日)
下が、支援本部事務局が立ち上がった(3月19日)の直後、3月24日です。内閣府の講堂に、70席の机を並べ、支援物資の要望を受け付け、送りました。
他方、次にしなければならない仕事と、そのための組織作りを始めました。写真左の時計の下、白いシャツの2人と議論している黒いスーツ姿が、山下哲夫参事官です。彼は、人集めと組織作りをしていました。左手前、黒いカーディガンの右袖を腕まくりして書類を見ているのは、福井仁史参事官です。彼は、何をしなければならないか企画を担当していました。二人とも、本職がありながら、それを置いてきてくれました。机がないので、立ったまま仕事をしていたようです。
もう少し左から撮った写真です。手前正面の机が、私の机ですが、座っていませんねえ。たぶん、歩き回って指示を出していたのでしょう。机の上には、罫紙、ペン、そしてペットボトルのお茶が載っています。まだ、パソコンで職員指示をする条件が整っていませんでした。罫紙にペンで書いて、指示を出していました。口答での指示と打ち合わせが多く、この騒然とした状態で話すので声が大きくなり、数日で喉をつぶしてしまいました。お茶で喉を潤しながら、話していました。この写真を撮ったカメラの位置の右後ろに、白板があり、そこに全体指示を書いて情報共有をしてました。
ほかにもいくつか、この日の写真があります。本業の様子5に、載せておきます。
下が、3月24日の被災者支援本部会合の様子です。内閣府の3階特別会議室を使っていました。毎朝11時に開きます。右側のテーブルに政務職が並びます。手前から辻元清美・総理補佐官、仙谷由人・官房副長官、松本龍・防災大臣、片山善博・総務大臣(オレンジの防災服)。左側に、平野達男・内閣府副大臣(事務局長)と、私たち事務職が並びます。
昨日の宿題を返し、新しい情報を上げ、政務職からの情報や指示をもらいます。そのために、事務方幹部(参事官たち)は、9時半と16時半に打ち合わせをしました。
本部会合の別の日、4月11日の写真です。
これは、事務局幹部が講堂から、別の会議室に移ったあとの写真です。扇風機があるので、5月以降でしょうか。6月末には、この部屋も閉じました。