今日9月12日は、東京大学(本郷)での日本広報学会シンポジウムで基調講演をしてきました。演題は「東日本大震災からの復興と情報発信」です。広報学会には、発災の2011年秋にも呼んでいただき、「行政機関の情報発信の課題」を話しました(2011年10月22日)。今回は、4年経って復興の現状と情報発信の課題を話せとのことでした。
災害に関する情報発信は、事前の防災、発災時の緊急事態、そして落ち着いてからの情報提供に分けることができます。前回お話ししたのは、発災直後の緊急事態についてでした。今回は、4年経って復興庁として何を心掛けているか、何が課題として残っているかです。
現在では、特段変わったことはしていないのですが、復興の進み具合や今後の見通しを正しく理解してもらえるように、ホームページを通じてできる限り情報を提供しています。わかりやすく早く提供できるように、かなり力を入れています。「復興庁のホームページ」。関係者には、結構良い評価をもらっています。ホームページは、新しい情報を追加したり更新するだけではダメで、定期的に構成を見なおす必要があります。事態がどんどん変わっていくので、関係者の関心も私たちの仕事の重点も変わっていくのです。それなのにページの構成をそのままにしておくと、What’s new が、What’s old になってしまいます。そして必要な資料がどこにあるのか分かりにくく、探すのに一苦労することになります。
残る課題はなんと言っても、風評被害対策と、放射線についてのリスクコミュニケーションです。今日のシンポジウムでも、福島からの発言があり、勉強になりました。
これで、木金土曜と続いた3連続の講話講演が、終わりました。次は、待ってもらっている原稿を、片付けなければなりません。
月別アーカイブ: 2015年9月
大震災から4年半
9月11日は、東日本大震災から4年半の節目でした。各紙とも特集を準備してくださったようですが、豪雨災害に紙面をとられたようです。読売新聞は見開きで、写真や図表を多用して、高台移転を詳しく解説していました。他紙も、数日前から連載などをしていました。朝日新聞は9月12日に、「東日本大震災から4年半」として「仮設 今も6.8万人」を特集していました。
岡本次官の怒り、仕事と家庭
今週の某日、ある職員が、相談に来ました。「来月の休日に、地方で開くイベントですけど、娘の運動会とぶつかったので、遅れて駆けつけます。ついてはイベントの前段を、次官に務めてもらえませんか」と。それを聞いて、久しぶりに私の怒りが爆発。「あんたの娘さん、まだ小さかったよな」。彼が答えて「小学校1年生です」。私は怒りを抑えつつ優しい声で、「あんたはアホか。娘さんの運動会と復興庁のイベントとを、天秤にかける親がどこにいる。一日中娘さんの運動会に出なはれ。あんたの小学校の時を、思い出してみ。親と一緒に玉転がしをして、弁当を食べたことが、うれしかったやろ。子どもさんが高校生とかだったら、親が来なくても良いだろうけど」と。
彼はまだ「私がいないと、イベントが・・・」とか抵抗していましたが、ここはキッパリ。「あんたがいなくても、仕事は回る。イベントに出席することは禁止する。自分がいないと仕事が回らないと考えているのは、自分の誇大評価も、はなはだしい」と、追い打ちをかけました。まじめな職員なので、少々演技をして、二人の共通語である関西弁で指導しました。
豪雨災害お見舞い
昨日今日と、栃木県、茨城県そして宮城県を中心に、豪雨による大きな災害が起きました。被害に遭われた方に、お見舞いを申し上げます。
写真で見ると、広い地域が水没し、びっくりするような状態になっています。今回は川の氾濫による災害ですが、津波と同様に、水の恐ろしさを見せつけられます。一日も早く水が引き、復旧することを期待しています。
存在する答えに向かうことと、自分で答を探すこと
毎日新聞9月9日夕刊、畑村洋太郎さんの「技術大国のおごりを捨てよ」から。
・・・日本企業は戦後、欧米の産業に追い付き、追い越せとばかりに努力を続け、経済成長を遂げてきた。そのピークは1980年代。日本の技術力や品質が外国で認められると、自らを誇ってこう呼んだ。「技術大国」と。とりわけ世界市場をリードしてきた一つが家電メーカー。だが今は、韓国、中国勢の大量生産による低価格攻勢にさらされるなどして経営が悪化している。この問題をどう捉えればいいのか。戦後日本の産業界を見続けてきた畑村さんの観点は独特だ。戦後70年の歩みを二つの時代に分けて考える。奇跡の50年間と、何をしたらいいか分からない20年間だ。
奇跡の50年についてはこう語る。「闇夜に光る灯台を目印にすれば船は目的地を見失わないように、日本企業は欧米の先進例を目標に『存在する答え』へ向かって必死で歩み、努力してきたからこそ高い技術力を身に着けた」。
その後の20年は、灯台にたどり着いたものの、次の目標を見失ったと見る。「日本企業は自分で『答え』を探さなければならなかった。それなのに『自分たちの技術は高い』との自己評価にあぐらをかくだけで、自らの頭で考え、努力することを怠ってきた」・・・
私は、『新地方自治入門』で、欧米に追いつくという目標をうまく達成した日本の行政が、達成したが故に目標を失い、次の目標を探しあぐねていることを論じました。