8月15日

今日は、8月15日。日本武道館で行われた全国戦没者追悼式に、出席しました。
第2次世界大戦で亡くなった日本人は、約310万人。うち軍人・軍属が約230万人、民間人が約80万人(うち内地で50万人)です。アジア各国でも、多くの人がなくなりました(約1,900万人)。(これらの数字は、細谷雄一著『戦後史の解放Ⅰ 歴史認識とは何か』(2015年、新潮社)p214、p267による。なお吉田裕著『アジア・太平洋戦争』(2007年、岩波新書)からの引用とのこと)。また外地からの引き揚げ者は、軍人と民間人を合わせて約630万人です(厚生白書昭和36年版、第2部第3章第8節)。そして、国の内外で戦時中と戦後、混乱した社会で飢餓や不安に苦しめられました。それは、数字では表すことができません。
武道館での式は厳粛で、終わって出てくると田安門の桜並木は蝉の声がしきりでした。どちらも、8月15日を思わせる雰囲気でした。

エスカレーターの片側を空ける

8月13日の読売新聞夕刊が、「エスカレーター、片側歩行やめて…転倒相次ぐ」という記事を載せていました。エスカレーターの片側を急ぐ人のために空けておく習慣は、いまやかなりの程度定着しました。関西では左側を、関東では右側を空けます。ところが転倒事故が多く、鉄道会社では「片側を空けない」「歩かない」というキャンペーンを、5年前からやっているのだそうです。
私も、『新地方自治入門』p266で、片側を空ける習慣を、公共を作る「ルールの形成」の一つとして紹介しました。2003年のことです。良いことだと書きながら、疑問も持っていました。片側を空けたままで、エレベーターを待つ人の長い列ができていることがあります。それなら2列で乗った方が、倍の運送力があります。ときどき左に人が乗っているときに、その右に立つことがあるのですが、キョーコさんに「だめよ、空けておかなければ」と叱られます。2列で並んで乗る習慣は、いずれ定着するでしょうか。

お盆です、ご機嫌伺い

お盆の時期、皆さんどのようにお過ごしですか。多くの職場では、夏休みを取っている方が多いでしょうね。私は、部下たちと分散する形で、先週に3日間お休みをいただきました。
今週も前半は、各省の幹部人事異動があり挨拶に来てくれる知人が多かったです。木曜金曜は来客も少なく、来るメールも部下からの相談も大幅に減りました。それを見越して、たまった資料片付けや、考えの整理に充てようとしたのです。そこそこ進みましたが、なかなかですわ。夕方からは、異業種交流のほか同業他社との意見交換、かつての同僚と久しぶりにビールとかが、入っていますし。

地方移住

日経新聞8月12日東京面「新幹線と地域」、吉田忠裕・YKK会長のインタビューから。YKKは東京の本社機能の一部を、富山県黒部市に移転することを進めています。
・・・県外から新しく来る人は全く違う価値観や感覚を持っている。(黒部に)赴任した社員に聞いてみると、東京では当たり前の選択肢がないという不満が多い。生活面である程度は首都圏と同じように暮らせる環境を整える必要がある。
まずは新幹線駅からの2次交通がたりない。バスの路線が少ない黒部では通勤や買い物、子供の送り迎えに車が不可欠だ。奥さんや子供がいたら車が2台ないと生活できないという声をよく聞く。電車やバスの接続が悪いことも問題だ。せっかく速い新幹線で来たのに、駅で長時間待たされたら嫌になる。スイスは田舎町でも、特急列車を降りたらすぐにバスが出発する。
住宅の整備も必要だ。富山には首都圏の人のニーズに合った家が少ない。例えば黒部市内は木造2階建てのアパートはあっても、鉄筋賃貸マンションが少ないし、駅近くに家がない。数は足りていてもニーズに合っていなければ意味がない。会社としても無料バスや住宅、保育所の整備を進めているが、自治体ともっと連携していきたい・・・
吉田会長には、私が富山県総務部長の時に、しばしば意見を聞くことがありました。YKKは富山が発祥の地で、大きな拠点があるのです。世界で敵なしのファスナーメーカーを率いる社長として、どのようにしてその地位を守っておられるのか、興味があってお聞きしたものです。月の半分以上を海外出張しておられ、「コストがあわなくなった現地工場を、別の国に移すのが社長の仕事です」というようなことをおっしゃっていました。
さて、ご指摘の点はなるほどと思います。東京で生活している人が、地方都市に行くと感じる生活の不便さ。私も田舎育ちで、就職してからも自治官僚として地方勤務をしたのでわかります。もっとも、明日香村は1時間に1本しかバスがない田舎でしたが、勤務は3度とも県庁勤務でそれなりの都会でした。
住宅などは、これまで需要がなかったので、それに見合うマンションなどがなかったのでしょう。これは、順次解決していくでしょう。
難しいのは、車依存社会をどう変えていくかです。地方は、鉄道やバスが衰退し、車社会になっています。当時、私の部下で「家にあるテレビの数より車の数が多い」という職員がいました。夫婦は1台のテレビを一緒に見ますが、車は2台必要なのです。夫婦とおばあちゃん、成人した子ども2人の5人家族だと、テレビは茶の間に1台か子どもの部屋にあと2台ですが、車は5台です(婆ちゃんは乗らない、夫婦が1台ずつ、子どもも1台ずつ、それに農作業用の軽トラックで5台)。
お店やレストランも、郊外のバイパス沿いにあって、車がないと行けないのです。富山に赴任早々の時です。勤務時間が終わって秘書に「今日は町をぶらぶらして、それで気に入ったところで晩ご飯を食べて帰るわ。公用車は要らないよ」と言ったら、「部長、そんな贅沢は許されません。どこで何を食べるかを決めて行かないと、歩いてぶらりと入る店はないです。店を決めてくださったら、そこまで車で送ります」と叱られました。商店街の中に、レストランが少ないのです。郊外型レストランを決めて、車で行くということです。これは誇張した話ですが(苦笑)。
笑い話に、夕ご飯の支度をしているお母さんが、子供に「醤油が切れたので、買いに行ってきて」と言うと、子供が「じゃあ、お母さん車で送って」というのがあります。多くの地方において、生活の隅々まで、自家用車を前提に成り立っているので、この生活の仕組みを変えるのは大変です。

政と官の関係変化、縦割りと前例踏襲主義で「官」は衰退した

日経新聞8月12日「戦後70年、変わる政治の軸。政と官、強まる首相主導」から。
・・・政と官の関係は様変わりした。竹下内閣から村山内閣まで7人の首相の下で事務の官房副長官を務めた石原信雄氏(88)は、「長らく政策立案の現場は広い意味での『官僚』が仕切っていた」と振り返る。広い意味での「官僚」とは現役に加え、官僚出身の政治家も含む。戦後の復興と発展を担った岸信介、池田勇人、佐藤栄作と続いた首相はそれぞれ戦前の商工省、大蔵省、鉄道省の出身だった。閣議にかける案件を事前に審査する週2回の事務次官会議が重要な政策決定の舞台だった。事務の官房副長官をトップに官僚機構が政治家をお膳立てした。
だが強力な官僚組織も次第に制度疲労を露呈する。1990年代に入ると、バブル経済が崩壊。護送船団方式で金融機関への管理を重視してきた官僚の対応は後手に回り、金融機関の不良債権拡大への処方箋づくりに悩んだ。「日本の官僚機構は守りに弱かった。問題を先取りして対応する力に欠けた」と石原氏は振り返る。縦割りと前例踏襲主義で「官」は衰退した。
代わりに主導権を握ろうとしたのが「政」だ・・・
全文は、原文をお読みください。政と官との関係は、このホームページでも、一つのジャンルを立てていました。世界一優秀だと言われた日本の官僚が、国民の信頼を失ったことには、様々な要因があります。かつて、「行政構造改革」として連載をしていたのですが、途中で中断したままです。いずれ、まとめたいと思っているのですが。