丸山真男著、松本礼二編注『政治の世界他十篇』(2014年、岩波文庫)を、読みました。丸山先生の『日本の思想』(1961年、岩波新書)、特にそこに収められた『「である」ことと「する」こと』は、読まれた方も多いでしょう。
丸山真男先生は、私が東大に入った頃は既に退官しておられましたが、法学部生にとっては「神様」であり、『現代政治の思想と行動』(未来社、新装版は2006年)は必読書でした。終戦直後に書かれた、戦前戦中の日本政治を鋭く分析した各論文を読んで、知的興奮を覚えました。今年は、先生の生誕100年だそうです。
今回の文庫本に収められたのは、政治学関係それも時事的なものでなく、政治学の特質や政治の特質を論じたものです。1947年(昭和22年、終戦から2年目)から1960年(昭和35年、日米安保闘争)までに書かれたものですが、今読んでも、古さを感じさせません。いくつか共感するか所を、紹介しましょう。
・・政治的認識が高度であるということは、その個人、あるいはその国民にとっての政治的な成熟の度合を示すバロメーターです・・それは政治的な場で、あるいは政治的な状況で行動する時に、そういう考え方が、いいかえれば、政治的な思考法というものが不足しておりますとどういうことになるかというと、自分のせっかくの意図や目的というものと著しく違った結果が出てくるわけであります。いわゆる政治的なリアリズムの不足、政治的な事象のリアルな認識についての訓練の不足がありますと、ある目的をもって行動しても、必ずしも結果はその通りにならない。つまり、意図とはなはだしく違った結果が出てくるということになりがちなのであります。
よくそういう場合に、自分たちの政治的な成熟度の不足を隠蔽するために、自分たちの意図と違った結果が出てきた時に、意識的に、あるいは無意識的になんらかのあるわるもの、あるいは敵の陰謀のせいでこういう結果になったというふうに説明する。また説明して自分で納得するということがよくあります。
つまり、ずるい敵に、あるいはずるい悪者にだまされたというのであります。しかしながら、ずるい敵にだまされたという泣き言は、少なくとも政治的な状況におきましては最悪な弁解なのであります。最も弁解にならない弁解であります。つまりそれは、自分が政治的に未成熟であったということの告白なのです・・p341。
この項、続く。