(レストラン調理場での壮絶な修行、2)
斉須政雄著『調理場という戦場』の続きです。斉須さんは、3店目にして、三つ星レストランで働くことになります。パリの高級住宅街にあるヴィヴァロアです。その店のオーナーに、斉須さんは理想像を見いだします。その立ち居振る舞いにです。
・・オーナーがやってことと言えば、一日じゅう掃除をしている…ほとんど掃除しかしていない。彼の印象に残る姿と言えば「掃除をしている姿」です。
レストランで何よりも重要なのは「清潔度」だということや、お客さんに対する家庭的な態度…ぼくは大切なことの大半を彼から教わったような気がします。仕事場のありようや空気は、そっくりそのまま仕事に映し出されるとと知りました・・(p91)
お店にはワイン会社の営業の人などがよく来ますが、あまりに従業員然としているから、オーナーとわからないのです。洗い場のおじさんのように見えるオーナーに向かって、「オーナーはどこにいますか?」と訊ねます。オーナーは茶目っ気を出して、洗い場のおじさんを呼びに行ったりします。
お客さんが喜んで「今日の料理はすばらしかった」と言うと、オーナーはお客さんを厨房に連れて行きます。「すばらしいのは私じゃない。彼が作ったのですよ、この子」と従業員を誉めます。
職員が気持ちよく働くことができる職場を作るコツは、どこも同じですね。この項まだ続く
月別アーカイブ: 2014年11月
仮設住宅暮らしの工夫
11月24日の朝日新聞特集「災害大国 あすへの備え。仮設住宅、少しでも暮らしやすく」で、仮設住宅の概要と課題、工夫を大きく解説していました。
仮設住宅は、本格住宅へ引っ越すまでの一時住まいですが、これまでの経験や長期化することから、施設や設備を充実してきました。エアコンがついたり手すりをつけ、断熱材を入れたりとかです。最近では、建設費に1戸あたり600万円から700万円かかっています。もっとも、急いでつくらなければならない、建設できる場所が限られているなどの制約もあり、全員に満足してもらうことは難しいです。また、このホームページでたびたび紹介しているように、建物の問題以上に、健康や孤立が問題になっています。
現在なお、仮設住宅は4万戸あり、約9万人の人が入っています。このほかに、公営住宅や民間住宅を借り上げているものもあります。こちらは、施設としては問題ありません。記事をお読みください。
3連休
3連休が終わりました。皆さん、充実した日を過ごされたことと思います。東京は、暖かな日が続きました。私は、たまっていた資料を片付けることができました。もっとも、抱えている仕事が、全て片付いたわけではありません。
年賀状の整理が、ほぼできました。でも、なかなか宛名書きまで、進まないのですよね。1月末締め切りの原稿を、半分ほど書き上げました。良しとしましょう。集中するために、余計な本に手を出さず、紀伊國屋に行かないで、頑張りました。で、これだけ書けたので、やはり行って、何冊か買ってしまいました。今、分厚い本を読んでいる途中なのに。
こんな小学生の日記を書いている暇があったら、早く読書にかかりましょう。
坂根社長。日本企業、ボトムアップと現場の強さ
日経新聞「私の履歴書」11月は、坂根正弘・元コマツ社長です。11月21日の「現地化の限界」から。
・・2度目の米国駐在は、日本企業と米国企業の強みと弱みを見極める貴重な機会だった。日本企業には米国流の経営を見習って改めるべき点も多いが、逆に「日本のほうが文句なく優れている」と感じた部分もある。それは生産現場の能力の高さだ。
当時交流のあった社外の米国人の一人に、デトロイト・ディーゼル社のペンスケ会長がいた。弁舌さわやかで指導力に富んだ米国産業界で著名な人物だったが、その彼が「どんな優れた経営者もQCDの問題は解決できない」と漏らしたことがある。
QCDとは、クオリティー(品質)、コスト(費用)、デリバリー(納期)の頭文字で、製造現場の実力を測る最も重要な指標だ。ところがペンスケ会長によると、経営トップがいくら旗を振っても、それだけではQCDは改善しない。現場がやる気を出して、地道な努力を日々重ねることが絶対条件。その意味で「ボトムアップの弱い米国企業には限界がある」というのが、彼の嘆きだった・・
アメリカの会社で、坂根社長は、日本人をできる限り減らして、米国人に置き換える方針をとります。しかし、ただ一つ「これだけは現地化が難しい」と感じた職種があります。生産技術者です。アメリカでは、新機種の設計を手がける開発技術者と、工場の設備企画や改善を進める生産技術者の間にステータスの違いがあって、前者が後者より上なのです。だから優れた技術者が、工場に行きたがらないのだそうです。それに対して、日本の多くの大手メーカーでは、開発と生産が対等の立場で協力します。坂根社長の自信は、コマツを回復に導きます。詳しくは原文をお読みください。
レストラン調理場での壮絶な修行
斉須政雄著『調理場という戦場―コート・ドール斉須政雄の仕事論』(2006年、幻冬舎文庫)が、勉強になりました。フランス料理のシェフと聞けば、かっこよく見えますが、修行の内容が壮絶です。著者は1950年生まれ。23歳でフランスに渡り、12年間フランス料理店で修行し、その後帰国して東京でフランス料理店を開いておられます。その経験談と、それに基づく人生論です。駆け出しの頃の仕事ぶりから(p28)。
・・翌日の仕込みや注文の打ち合わせがあるから、夜12時半前に仕事が終わることはなかった。週に2回か3回、市場で買い出しのある日には、午前3時半に市場に市場に着いていなければならない。その場合にはレストランを2時半に出る。
「30分しか寝ていないのに」なんて日もしばしばで、「ぼくは、いつ倒れるのかなぁ」とおもっていました・・
ところが、2時に起きて、コーヒーを淹れてオーナーを起こしに行くと、既にオーナーも起きているのです。2人で市場に行って、3時半から開く魚や生鮮品、4時半からの内臓、6時からの肉、9時からの野菜を買い付けます。途中で、いったん店に戻って出直すのですが、帰ってくるのが12時。サービスが始まる時間です。起きてから既に10時間くらい働いています。
ところが、コックだけでなく、オーナーもすごく働きます。修行の4店目は、有名なパリのタイユバンです。オーナーは、誰よりも最後までお店にいます。夜中の2時までいて、翌朝には従業員が出勤する様子を、事務所の中から監視しています。
著者にとって、余裕のあるのは休日だけです。しかし、休みの日も後半になると、翌日の仕事を考え、落ち着かなくなります。
調理場、しかも最初の頃はフランス語も通じません。そこでの壮絶な修行、いわば戦場でどのように戦ったか。経験者だけが語ることのできる話です。
私も20歳代の駆け出しの頃、冬の時期には、毎日職場に泊まり込みました。1週間、一度もビルを出なかったとか、2週間、寮に帰らなかったとか、変な記録を自慢していました。自治省財政課の見習いは、いくら仕事をしても、追いつかなかったのです。昼食は社員食堂、夕食は出前。明け方まで仕事をして、局長室の床に寝袋を持ち込んで寝ていました。もちろん、朝飯は抜きです。お風呂は、せいぜいシャワーを浴びるくらいで、お湯で身体を拭いていました。着替えは、2週間分を旅行鞄に入れて持ち込んでいました。すると、1週間くらい、あっという間に過ぎるのです。よくまあ、あんなことができたものです。でも私の場合は、日本語は通じましたし、先輩同僚がいろいろ教えてくれました。精神的には、きつくなかったです。
この項続く。