東京大学出版会のPR誌『UP』2014年9月号、大西克也教授の「屈原との筆談」から。
先生のゼミ「戦国楚系文字研究」で勉強すると、あの世に行って屈原と筆談ができるのだそうです。屈原は、中国戦国時代の政治家です。紀元前300年頃ですから、今から2,300年前の人です。『楚辞』に収められた「離騒」が有名です(横山大観の絵「屈原」も印象的です。厳島神社が所蔵しているとのことですが、インターネットでは良い写真が見つかりませんでした)。
筆談ができるかどうかは、本文を読んでいただくとして。紹介したいのは、その文章に添えられている写真です。戦国時代の楚の国で使われていた文字(漢字)ですが、何とも奇妙な文字が並んでいます。その後、秦の始皇帝によって文字が統一され、滅ぼされた文字です。ご関心ある方は、ご覧ください。
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西尾勝先生の時代の証言者
読売新聞連載「時代の証言者」は、9月11日から、西尾勝先生の「地方分権の夢」が始まりました。先生が参画された分権改革が、どのように進み、どこが進まなかったかは、この連載をお読みいただきましょう。
元自治省の役人としては、いろいろと思い返すことがあります。このホームページでも、分権改革や三位一体改革を「同時中継」しました。三位一体改革については、いくつか文章を書きました。また、雑誌に連載もしました「進む三位一体改革」「続・進む三位一体改革」。一冊の本にしておかないと、残りませんね。反省。
西尾勝先生から、「必要があって、岡本君が書いた『進む三位一体改革』を読んだけど、やたらと長かったね」とのおしかりをいただいたことも、懐かしい思い出です(2007年6月1日の記事)。
社会を動かす、改革を進めるには、アイデア、担ぐ人(研究者、官僚、マスコミ、政治家)、そして世論の後押しや時代背景など、さまざまな要素と人が必要だと学びました。社会改革や行政改革を、一つのプロジェクト(企画)として組み立てる(見る)ことも、学びました。官僚は、その「職人」であるべきです。
全てが実現したわけではありませんが、戦後半世紀動かなかった分権改革が進んだことは、すばらしいことだと思います。残念ながら、その後、大きな動きは止まってしまったようです。もう一度動かすには、さまざまな仕掛けと、大きなエネルギーが必要でしょう。
経団連との意見交換
今日は早朝から、経団連で、復興大臣と経団連会長らとの意見交換会でした(NHKニュース、産経新聞)。このページでも書いているように、被災地では、インフラ復旧だけでは、暮らしは戻りません。産業と生業の復興が不可欠です。国としてはいろいろと支援しますが、民間企業の努力と支援が必要です。それをお願いしました。
榊原経団連会長には、就任早々、被災地を視察していただき、私もご案内をさせてもらいました(7月8日の記事)。今日も1時間みっちり、被災地での産業復興について、身のある意見交換でした。それぞれからいくつかの提案があり、これから事務方同士で進めることになりました。
また経団連では、10月3日に、被災地の物産を販売する「被災地応援マルシェ」を、大手町の会館で開催してくださいます。ありがとうございます。
災害による家族間の争い
9月10日の読売新聞1面トップは、「震災被災者の法テラス無料法律相談、3年延長へ」という記事でした。詳しくは原文を読んでいただくとして、次のように書かれています。
・・避難生活や住宅再建などを巡る法律相談が今なお増加傾向にあるためだ・・
・・13年度の相談内容の内訳をみると、最も多いのは離婚や相続など家族同士の法的トラブルで39.2%だった。次いで、知人との貸し借りなど金銭トラブルが25.4%、二重ローンなど多重債務に関する相談が13.7%だった。復興に伴う自治体による土地買い上げなど不動産を巡る相談も10.5%あった・・
二重ローンなど災害に起因する経済問題が多いと思っていたのですが、家族間の争いがはるかに多いのですね。法テラスについては、このページをご覧ください。
社会を観察するのではなく、社会に参加し貢献する学問
東京大学出版会のPR誌『UP』2014年9月号、山下晋司教授の「公共人類学―人類学の社会貢献」から。
・・近年、大学の、あるいは学問の社会貢献が問われているなかで、「公共哲学」「公共政策学」「公共社会学」など「公共」を冠した研究分野が現れてきている。人類学も例外ではない。「公共人類学」(public anthropology)という新しい分野が立ち上がってきているのだ。その背景には、アメリカ人類学会会長を務めたジェームズ・ピーコックの言う”public or perish”(公共的でなければ、滅亡)に示されるような人類学会の危機意識がある。社会に貢献しなければ、人類学は生き延びることができないというのである・・
・・従来の人類学では学問的な営為としては、参与より観察の方が勝っていた。逆に、公共人類学においては、観察よりも参与に力点が置かれ、当該社会が直面する問題の解決に向けて貢献することが目的となる。その意味では、公共人類学は、マックス・ウェーバー流の没価値的な客観性の追求から、価値創造に向けての実践への転換の試みである・・