「覇権国家イギリスを作った仕組み、7」から続く。
7 社会の問題を解決する主体は誰か
私のこのホームページでは、この本の解説(今書いている記事)を、「政治の役割」に分類しました。「社会の見方」や「社会と政治」にも分類できるのですが。
どのような国(社会)を作るのか。それが、政治の役割だと考えているので、このような分類にしました。もちろん、政治の前に「社会」があります。しかし、その社会が絶えず生み出す問題を、「誰がどのように、そしてどの方向に解決するか」。それが、その「国のかたち」を決めます。
同じ近代民主主義国、資本主義自由経済国家であっても、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、そして日本は、よってきた歴史と社会が異なり、「国のかたち」が違います。同じような代表制民主主義や三権分立という政治制度を持っていても、誰が主体となって社会問題を解決するかが、違うのです。
家族と親族、企業、地域社会、中間団体、宗教、(ここで引用した)チャリティやNPO、そして地方議会、国会、行政と。国によって、解決する主体、あるいは解決を期待される主体が異なります。
イギリスでは、議会がまずは主体になるようです。それに比べ、日本では、内閣(行政)が解決主体として期待されているようです。議会が解決方向を示すというよりは、議会が内閣を追求する、そして内閣が出した法律について付帯決議を付けるという過程が、それを表しているようです。問題が起きると、国会の不作為よりは、各省の不作為や失敗が追求されます。マスコミ報道も同じです。批判が行政に向かうのは、国民が(国会や地方議会ではなく)行政が解決することが当然だと思っているからでしょう。
明治維新と戦後改革で、日本は欧米流の国家統治の仕組みを輸入しました。しかし、仕組みを輸入することと、運用の実態とは別のようです。国会審議の実態が国によって違うことを、このページでも取り上げています。
この点については「この国のかたち」で、別途考えたいと思っています。例えば、2001年の中央省庁改革の基本を決めた「行政改革会議最終報告(平成9年12月)」に、次のような「この国のかたち」が述べられています。
・・われわれの取り組むべき行政改革は、もはや局部的改革にとどまり得ず、日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別し、自律的個人を基礎とし、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へと転換することに結び付くものでなければならない・・(はじめに)
・・今回の行政改革は、「行政」の改革であると同時に、国民が、明治憲法体制下にあって統治の客体という立場に慣れ、戦後も行政に依存しがちであった「この国の在り方」自体の改革であり、それは取りも直さず、この国を形作っている「われわれ国民」自身の在り方にかかわるものである。われわれ日本の国民がもつ伝統的特性の良き面を想起し、日本国憲法のよって立つ精神によって、それを洗練し、「この国のかたち」を再構築することこそ、今回の行政改革の目標である・・(第Ⅰ章 行政改革の理念と目標)
これは、行政についてですが、引用した文章にもあるように、国民の意識と行動でもあります。それは、家族、社会、国会、政府の役割分担でもあるのです。
この項続く。