覇権国家イギリスを作った仕組み、5

近藤和彦著『イギリス史10講』の続きです。

5 社会問題の解決に、地域とチャリティが果たした役割。
少し違ったテーマですが、興味深いものに、救貧とチャリティがあります。
(ヘンリー8世時代に国教会を作り、従来の修道院を収用して王領とします)
・・修道院の解体に伴い、貧民や捨て子は修道院に収容するという従来の道は絶たれ、世俗の代替策を見つけなければならなくなった。救貧あるいは貧民対策のための法律(poor law)がエリザベス期にくりかえし議会で審議されたのは、そのためである。その集大成として、1601年(エリザベス治世第43年)に定められた「貧民対策法/救貧法」は、教区(パリッシュ)を前提にしている。よそ者・浮浪者を教区から追い出し、婚外子の認知を判定し、クリスマスや復活祭に施しをする、といった経費と吏員の雇用を、教区の税(レイト、特定目的税)でまかなった。
教区は住民の信仰生活の核、近隣共同体であるが、近世からは世俗統治のローカルな末端でもある。全国で1万ほど、地域差は大きいが、平均すると教区人口は数百人ほどで、住民はたがいに顔も名も見知っていた。教区教会には司祭が赴任したが、住民たちは教区の寄合(ヴェストリ)につどい、世俗案件を協議した。案件のうち重要なのは道路や橋のメインテナンスと、貧民や婚外子の措置だった。地域史家W・E・テイトは、教区の寄合を近隣の「小さな議会」とよぶ・・(p100)
・・貧民対策法/救貧法の関連で見逃せないのは、同じ1601年の「チャリティ用益法」である。こちらは貧困救済、教育と宗教の振興、その他コミュニティの益のために設立され、基金や土地の収益を運用する公益団体(チャリティ)の法的根拠になった。今日の「チャリティ法」にまでその「精神と真意」は保持されている。近代史家J・イニスは、イギリスの社会政策の特徴は税(行政)とチャリティ(民間)の二本柱からなる「福祉の複合体」だと論じているが、その源は同年の2つの法律にある。
2つのうち貧民対策法の教区主義はやがて1834年に撤廃され、根本的に転換する。チャリティ用益法のほうは、教区とは無関係に、イギリス民間公共社会における400年あまりのチャリティ文化を、また活発な民間金融を法的に支えてきた・・(p101)
この項続く