7月9日の朝日新聞オピニオン欄、「政党政治を問い直す」、萱野稔人・津田塾大教授の発言から。
・・政党とは本来、政策を競うものだ。そうよく言われる。しかしこれからの時代、それを素直に自明視することはできない。
なぜなら政策を実行するには財源が必要だからだ。社会保障の拡充にしても、景気対策にしても、あるいは防衛力の強化にしても、その点は同じである。
政党が政策を競うということは、したがって財源を奪い合うということである・・
・・少子高齢化のもとでそうした集団による競争がおこなわれれば、希少なパイの奪い合いになり、いきおい既存のパイでは足りなくなるだろう。足りないパイは政府が借金をして、将来世代にツケをまわすしかない。政党間の競争は将来世代のパイまで奪い合う事態をもたらしている・・
政党は、近代民主主義国家にとって、必要不可欠です(なのに、日本国憲法には、規定がないのですが)。
国会などの場で、多様な国民の意見や利害を代表する、あるいは集約するには、政党が必要です。有権者の支持を集めるために、社会のある利益集団(利益層)を代表するか、意見を同じくする人たちを代表することになります。
社会に、利益や意見の明らかな対立があると、政党の配置はわかりやすくなります。ごく簡単に言うと、近代先進国では、地主、企業家、労働者、その他のホワイトカラー、あるいは軍人が、母集団になりました。税金をどこから取るか、関税や補助金などで既存産業を保護するか、労働者の利益を保護するか企業家の利益を優先するかなどです。
どのような社会をつくるかの意見の違いも、そこから出てきます。資本主義で行くのか、社会主義に進むのか。東西冷戦を背景に、第2次大戦後の保守対革新は、この争いでした。もっとも、戦後日本においては、保守政党(と呼ばれる政党)が改革を提唱し、革新政党(を自称する政党)が「憲法を守れ」に代表されるように保守を提唱しました。
さて、そのような「呼称と実態のズレ」を別にして、現在の日本において、政党の構図がいまいちわかりにくい。また、2大政党制を目指したのにそうなっていないことの背景には、国民の間の利害対立が明確なっていないことがあります。経営者の多くがサラリーマンになり、資本家対労働者の対立は、明確でなくなりました。市場経済主義対共産主義(=自由主義対一党独裁)も、勝負がつきました。
私は、日本においては、都会対地方や高齢者対若者が利害対立の軸、そして政党の対立になるのではないかと思っていました。前者については、東京一極集中が進み、政治的には成り立ちにくくなりました。後者については、年金や医療費の財政負担において、今なお存在理由を失っていないと考えています。
萱野さんの発言は、なるほどと思います。対立軸は、何に予算をつけるかでなく、誰が負担するかになっているのです。しかし、それはあまりに露骨で、夢がありません。政党が有権者に売る「商品」としては魅力がなく、正面からは打ち出しにくいです。政策の販売戦略としては、「○○に予算をつけますよ」と唱え、その負担については言及しない戦法をとるのでしょう。それを見抜いた有権者は、「その政策は良いですが、どこから財源を持ってくるのですか」と質問しなければなりません。
政策の販売合戦が実は負担の押しつけ合いだと、国民に見抜かれると、民主主義は難しくなります。民主主義は経済成長のある時代にしか成り立ち得ないのではないかという説を、『新地方自治入門』p301で紹介しました。