復興推進委員会

今日、復興推進委員会(有識者会議)を開きました。委員会では、「新しい東北」を議論してもらっています。
提出した資料のうち、資料2-1が、「新しい東北」の取り組み全体像です。ご覧のように、「先導モデル事業」「人材プラットフォーム」「投資促進のプラットフォーム」「官民連携協議会」の4つから構成されています。
資料2-2が、そのうちの「先導モデル」のそれぞれの概要です。66もあるので、もう少し読みやすく、検索しやすいように工夫しましょう。

休日の靴

最近、うれしかったことに、靴があります。休日に履く靴を、買い換えました。これまで愛用していたのは、茶色のシンプルなローファー(バックスキンかな)です。靴べらも不要ですっと履けて、軽くて歩きやすかったのです。靴底を張り替えたりして、20年近く使いました。
休日に履くといっても、行くところは本屋、美術館、デパートと職場くらいです。善福寺川への散歩がてらのときは、別のジョギングシューズです。忙しい仕事の時期は、めったに履くことがありません。だから、長持ちしたのでしょう(苦笑)。
さすがにくたびれてきたので、昨秋にデパートや靴店を見て回り、いろんなものを試した上で、よく似た形のものを買いました。キョーコさんに付き合ってもらって、それなりに格好の良いのを選びました。ところが、試着(試し履き)したときは良かったのですが、何度か外出すると、しっくりこないのです。
靴って、サイズだけでは、足に合わないときがありますよね。だから、皆さん、店頭で試着します。私の足は甲高幅広で、3Eなどを選びます。横幅に合わせたのですが、縦の長さが合っていなかったようです。中敷きを入れてみたり、履いているうちに慣れるだろうと、いろいろやってみたのですが、気になります。服やズボンなら、少々のズレは辛抱できますが(もっとも、小さすぎるのは無理です)、靴は歩くたびに、気になって仕方ありません。
ついに決心して、暮れに、もう一度買い換えることにしました。今度は、方針を転換して、紐靴に。履くときに、いちいち紐を結ぶ必要があります。ところが、今度の靴は、本当に足に合うのです。年末年始、1月の休日に履いて歩いたら、ぴったりで気持ちの良いものです。子どもではありませんが、大げさに言うと、「歩くのがうれしくなる」でしょうか。
で、数回しか履かなかった靴は。田舎の父に送ったら、「ちょうど良い」とのことで、めでたしめでたし。

政治評論の役割、3

御厨貴著『馬場恒吾の面目』の続きです。もう一つ興味深かった指摘を紹介します。
・・『危機の20年』―これは高名な歴史学者E・H・カーによる戦間期20年を扱った名著の題名である。カーの命名の仕方にあやかれば、1931年の満州事変の勃発に始まり、1955年の55年体制の成立に至る四半世紀こそ、20世紀の日本にとって「戦争」による危機と変革の構造を含んだ一つの時代であった。
「危機の25年」―満州事変に始まり、5・15事件、2・26事件という国内騒乱を経験し、日中戦争そして日米戦争に突入する。敗戦の後はアメリカ軍による占領改革を経て、復興の最中に55年体制の成立を見る・・(p16)
なるほど、そうですね。私たちは、1945年(昭和20年)の敗戦で、日本の歴史を大きく区切ります。戦後改革で、日本の政治、経済と社会は、大きく変わりました。しかし、御厨先生が指摘されるように、日本の政治、日本人はどのように国の進むべき道を選んだかという視点からは、1945年で分けられるのではなく、戦前の政党政治が終わった1931年から、次に戦後の政党政治が安定した1955年までを一区切りとしてみることが重要です。目から鱗でした。
ある日を境に、前の時代(政治体制)が、次の時代に代わるわけではありません。前の時代が倒れた後に、新しい時代を作る過程・苦しみがあります。それは、明治維新も同じでした。江戸幕府が倒れてから、明治国家が軌道に乗るまで、結構な時間がかかっています。どの時点をもって軌道に乗ったかは意見が分かれるでしょうが、西南戦争までで10年、明治憲法までが23年です。
すると、第3の開国と呼ばれる、現在の改革はどうでしょうか。例えば、1991年バブル崩壊を起点とすると、それから既に23年が経ちます。政治改革、規制改革などが進行中です。この間の行政改革を、単にスリム化ではなく、行政のあり方、さらには国家のあり方の改革として、分析を試みたことがあります。行政改革の現在位置」(年報『公共政策学』第5号p37、2011年)。時間ができたら、じっくりと考えてみましょう。

全町避難の町長

1月22日の朝日新聞オピニオン欄に、福島県大熊町の渡辺利綱町長のインタビューが載っていました。
大熊町は、第一原発が立地し、約1万1千人の全町民が避難しています。町役場は、遠く離れた会津若松市内に移転しています。町内の中心部は、帰還困難区域と居住制限区域になっています(この資料のp19)。また、中間貯蔵施設の受け入れも、お願いしています。
・・地域の復興に30年はかかるでしょう。「もう3年たった」ではなく「まだ3年」です。日本人の平均寿命の80年からすれば短いスパンですよ。それでも昨年は株価の上昇や東京五輪招致の成功で世の中が沸き立っていたので、社会から置き去りにされているような焦燥感がありました。午前2時、3時に目が覚める日もあります。
事故直後に大熊町は40キロほど離れた田村市に避難させてもらい、体育館に寝泊まりしていました。子どもの避難先を決める臨時町議会を駐車場のバスの中で開きました。ある晩、夢の中にも事故の光景が出てきてね。パッと目が覚めて「悪い夢を見ちゃった。夢でよかった」と思ったら、横を見ると町議会議長が寝ていて、現実に引き戻されました。今でも悪い夢が続いているんじゃないか。そう思うときがあります・・
町長の苦悩を知ってもらうために、ぜひ、全文をお読みください。