「人間は、自然と社会を理解でき、制御できる」、佐藤俊樹著『社会は情報化の夢を見る』の続きです。
近代産業社会は、人間が科学技術の力を借りて、自然を支配できると考えるようになりました。あわせて、社会技術によって社会を制御できると、信じました。そして社会制御に関して、2つの大きな制度を持ちました。産業資本主義という経済制度と、民主主義という政治制度です(p205)。それぞれ、神の思し召しではなく、人間が経済を発展させ、人間が政治を操ります。
政府が社会を制御する、あるいは社会に介入する際に、「社会技術を使う」という観点で見ると、まだまだこの技術は未熟です。特に経済に関して、レッセ・フェールの思想では、政府は市場に介入しない方が良いと考えられました。各人の自由な営みに任せておけば、良い結果が生まれるという考えでした。そこには、政府による制御という考えは希薄です。
しかし、民法、商法、会社法といったルール、それを実行させる裁判制度、といった市場経済を円滑に運営するための制度は、政治が作ります。無法状態では、安心でき安定した経済取引ができません。
さらに、各人の自由な利益追求が埋め込まれた産業資本主義は、自動的に発展し変化する仕組みです。既存秩序が不安定になることが想定されます。
自由に任せておくと強いものはより強くなり、労働者は大きな会社の前に無力であり、独占は自由な競争を阻害します。弱い産業は、他国の強い産業に負けます。好景気と不景気が循環し、為替市場が変動し、バブルや経済危機・金融危機が起きます。政府は、市場経済が円滑に運営されるようにルールを作るだけなく、労働政策、産業政策・経済政策・金融政策などに乗り出さなければなりません。
さらに、個別企業を救済することもあります。
市場・経済(や社会)に対して、政府はどこまで介入するのか、するとしたらどのような手法を使うのか。これは、これまで長く続いてきた論争です。簡単に言えば、危機が生じた際に、あるいは大きな問題となったときに、手当てをしてきた、という歴史でしょう。
私は、政府と行政の役割を考えることを、ライフワークにしているのですが。これら経済と政府との関係を、どう考えるのか。また、民主主義は社会制御の手法・制度であって、制御の内容すなわち社会の何にどのように介入するのか。これら、政治・行政の役割や、経済や社会との関係をどう整理したら良いのか、ぼちぼちと悩んでいます。具体のテーマは、毎日目の前にあります。それらを、どのような角度から切り取ったら良いのか。その視点に悩んでいます。