責任者は何と戦うか、その9。部下と戦う

延々と続いている「責任者は何と戦うか」シリーズですが(苦笑)、重複をいとわず、再び組織内の敵を取り上げます。
身内の敵の一つに、部下があります。これは与党内の敵など、反乱を起こすことがある敵ではありません。そんな部下もいるでしょうが、通常はいません。ここでいう「部下が敵」とは、次のような意味です。

まずは、指示したとおりに動いてくれない部下。期待したとおりに動いてくれない部下です。上司は通常は有能ですが、一人で何でもかんでも処理できるわけではありません。部下職員に一定の指示を出し、それぞれの担当者に任せて、彼らが処理できない事項を助言したり自ら処理します。しかし、思った通りに動いてくれない部下は、上司にとって困ったものです。
平時は、それでも糊塗できます。しかし、緊急事態が起き、さらに変化しているときに、的確な情報を上げない部下。それ以前に、その事態を重大な事故だと認識しない部下では、上司は困ります。組織の弱さや、上司が部下を掌握していないことが、明白になります。

さて、その延長で言うと、野球の監督は、何と戦っていると思いますか。もちろん、対戦相手でしょう。相手を見て先発メンバーを決め、試合中は選手にいくつかの指示を出します。選手交代のタイミング、攻撃時では待つのか強攻策か。守備の時は、攻めるか敬遠かなど。
でも、試合が始まったら、実は監督の仕事は、ほとんど終わっています。それまでに、どのような選手の補強をし、選手を育て、選手たちに監督の考えを徹底しているか。極端な例では、ラグビーの監督は、試合中はスタンドにいます。
真珠湾攻撃も、ミッドウエー攻撃も同様です。作戦が始まったときには、司令長官と作戦参謀の仕事は、終わっています。もちろん、事態の推移に従って、想定したシナリオの中から、次の作戦を選んでいく必要はあります。
試合中に、「あ~、なんで選手は、俺の言うとおりに動いてくれないんだ」と言っても、遅いです。誰が悪いのか。それは、自ら考えた水準まで選手を育てることができなかった自分です。そして、その水準まで育っていないチームを抱えて、過大な戦術を立てた自分です。
すると、敵は部下だと言いましたが、実は部下を育てることに失敗した自分であり、客観的な認識ができなかった自分なのです。このような話は、あまりに生々しすぎて、賛同が得られないですかね。(2013年9月18日)

昨日の記事に対して、「生々しすぎます」という反応が、2人からありました。お二人とも、しかるべき管理職にいる人です。この状態を、体験中なのですね。(2013年9月19日)

「部下と戦うの次は、上司と戦うですよね」という催促が、数人の方からありました。理論上は、その通りです。上司が部下に困るのと同様、部下は上司に困ります。
しかし、この項目については、いくつか差し障りがあるので、次の機会にしましょう(苦笑)。

官位を欲しがる中世人

本郷恵子著『買い物の日本史』(2013年、角川ソフィア文庫)が、おもしろかったです。「買い物の日本史」と表題がついていますが、内容のほとんどは、中世の官位を金で買う事情です。この表題には、やや疑問あり。
律令制が崩壊してから、官位は金とコネで買えるようになりました。相模守とか左右衛門尉とか、時代劇でおなじみの官位が、その役職に就いていなくても、もらえるのです。そのために、朝廷に対して、あるいは幕府を通じて、申請します。もちろん、相場の金額を納める必要があります。そのお金は、朝廷の収入になったり、社寺の造営の費用に充てられます。取り次ぎをする貴族たちも、手数料を取ります。
そんな官位ですから、もらっても収入が増えるわけでもありません。何故、皆がそんな肩書き=紙切れを欲しがるのか。この仕組みを成り立たせているのは、官位をもらわないと社会で名乗りをできない=一人前と認めてもらえないという風習です。現代だと、名刺がないということでしょうか。だから、猫も杓子も、少々の金と地位のある者は、官位を欲しがります。そして、さらに上の位を目指します。朝廷、幕府、貴族、社寺が、これらによって一つの秩序を構成します。公共システムを、成り立たせているのです(p122)。
恐るべし、官位の価値。逆にいえば、それも手に入れることができるという、貨幣の価値。
もっとも、時代とともに、ものの値打ちが下がることは、世の常です。どんどん、手数料が下がります。
そして幕末になると「七位、八位ならば、無位無冠の方がよほど良うございます。何故と申しますと、下駄屋、魚屋、そんな者が七位になるのでございます」という状態になります(p187)。なぜ、このような人たちまでもが、官位を欲しがるのか。そして手に入るのか。それは、本をお読みください。
もっとも、現代人も官位を欲しがります。中世の人たちを笑うことはできません。

精巧だけど安い日本の時計、ブランドで売るスイスの時計

朝日新聞別刷りGlobe9月15日号は、時計の特集でした。2012年、シチズンとセイコーの2社でムーブメント(時計の中身=機械部分)の販売個数は、5億個以上。世界の時計の生産数は推計10億個なので、2個に1個はセイコーやシチズンのムーブメントが入っています。普及用だと単価は100円しないとのことです。1個100円ですか。儲かりませんね。
日本のメーカー全体では、時計とムーブメントの出荷数は約6億個。うち完成品は6,700万個なので、ほとんどはムーブメントで出荷されています。
完成品の輸出個数は6,000万個で、金額は1,000億円。これに対し、スイスは、完成品の輸出個数は約3,000万個で、金額はなんと2兆1,000億円。日本の半分の個数で、20倍の金額を稼いでいます。単純平均すると、日本製は1個2千円で、スイス製は7万円です。私の計算は間違っていませんよね。
う~ん。ブランド恐るべし。日本メーカーはかつて1970~80年代に,クオーツ式腕時計を開発して、スイスの時計産業を壊滅状態まで追い込んだのですが。見事に復活していますね。日本は安くて精巧な機械で売っていては、部品メーカーで、いずれ新興国に追いつかれますね。

失われた20年、私たちは何を失ったか

日経新聞が、フォーブスの記事を転載しています。「語られ始めた『日本の失われた20年はウソ』という真実」(電子版、2013年8月29日配信)。その記事の中で紹介されている、Eamonn Finglton氏の「The Myth of Japan’s Failure」(The New York Times、January 6, 2012)。
この20年の間に、私たちは、何を失い、何を間違ったのでしょうか。先日も、「日本は異質か」(2013年8月16日)を書きました。整理し分析しなければならないことは、次のようなものでしょう。
・日本の問題と先進国の共通問題
・日本経済の問題として、バブル崩壊、不良債権の処理、デフレ経済
・日本の経済社会の構造的問題として、追いつき型経済・日本一人勝ち経済の終了
・グローバル化と国際金融危機の影響
・そして、新たな産業・経済への挑戦
・その間に、日本の政治と金融界・経済界は、何をして、何をしなかったのか

私は、日本の政治も金融界も経済界も、それなりにこの大きな課題に取り組んだと考えています。しかし、バブル崩壊、不良債権処理はこれまでに経験したことのない大きさであり、国際金融危機は日本一国で対応できるものではありませんでした。もちろん、もう少し早く上手に手を打てばよかった、という批判はあると思います。でも、10年前に日本を批判した各国が、同じような道を歩み、日本批判をしなくなりました。
たしかに、経済成長率も低下し、世界での工業製品のシェアもいくつも落としました。賃金も上がらず、非正規雇用も増えました。しかし、よく見ると依然として多くの日本人は豊かな生活を送り、健康で長生きです。町並みもきれいで、社会は安心安定しています。何がダメで何がよかったか、何が変わらなかったか。それを、分野別に分析すべきです。
問題の一つは、「失われた10年」「日本はダメになった」という流行語に、日本人が自虐的に浸ってしまったことです。現実の悪い面を直視することは、よいことです。しかし、それはその課題を克服するためであって、自らを貶めて満足していては、進歩はありません。さらに、「日本の全てが悪い」というレッテル張りは、努力した面やよかった点を評価せず、知的な分析をサボってしまいます。「流行語が作る時代の雰囲気」。(2013年1月9日)
そしてそれは、次の問題につながります。すなわち、課題の解決に向けての建設的な議論とそのための改革を、妨げるのです。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といった日本礼賛の裏返しが「失われた10年」であり、「一億火の玉だ」の裏返しが「一億総懺悔」になります。マスコミにあっても、「ヨイショ記事」か「何でも批判」のどちらかでは、冷静な分析に欠け、建設的な代案の提示がありません。

台風被害

台風18号が、日本列島に大きな被害をもたらしました。東京も、朝から強風と大雨でした。テレビに映る各地の洪水は、大変なものでした。お見舞いを申し上げるとともに、早い復旧をお祈りします。