私が「変わらなかった」と主張するのは、次のようなことからです。
現実として、日本社会は変わりませんでした。明治維新や戦後改革のような、社会構造や国民の意識に大きな変化はありませんでした。
一つには、被災地域と人口が限られていたからです。大きな災害でしたが、東北3県の人口は全人口の5.5%でした。
変わったとすると、被災地での絆が強まったとか、ボランティア活動や企業の社会的責任がより認識されるようになったことが、挙げられます。また、防波堤だけでは守ることはできない、自分の命は自分で守る、逃げるということがわかりました。
この災害をきっかけに社会が変わるためには、「変える努力」が必要だと思います。統治者が変わるような革命は、民主主義の日本では想定しにくいです。
しかし、社会がじわじわと変わることはあります。少子高齢化で、家族の形態は変わりました。介護保険で、高齢者の面倒を見る形も変わりました。それらと同じように、ボランティア活動の広がりが日本社会を変えていくでしょう。若い起業家が増えることで、産業や若者の労働観が変わるでしょう。
アメリカで、寄付文化やボランティアが活発なのは、キリスト教文化とともに、ベトナム戦争反対と若者の反乱(カウンター・カルチャー)によって、優秀な若者がエスタブリッシュメントに対抗して新しい生き方を選んだからだと聞いたことがあります。
日本社会を変える。そのためには、「若者の挑戦」が必要です。待っていても、革命は起きません。
月別アーカイブ: 2013年3月
官僚の仕事は未来との対話
かつて、イギリスの歴史家E・H・カーは、「歴史は、現在と過去との対話である」と表現しました(『歴史とは何か』1962年、岩波新書)。その言葉を借りると、私たち官僚の仕事は、「未来との対話である」とも言えます。
現在の社会が抱える問題に対し、それをどのように解決していくか。目標を立てて、それを解決する政策を進めていきます。課題を設定し、解決策を見いだし、現在ある財源、職員、ノウハウ、情報を動員します。
私たちが見据えなければならないのは、未来であり、責任を取らなければならないのは、将来の国民に対してです。歴史家や学者は過去を分析しますが、官僚は未来を作らなければなりません。
その際に、工程表を作り、関係者を巻き込んでいきます。「できる官僚」とは、それを上手にできるプロデューサーやディレクターでしょう。目標と時間軸と手法を提示して、作戦を実行することです。いつまでに何をするか。それには、どれだけの人や方法を利用できるか。
復興の仕事をしていて、自分の役割を見なおし、そんなことを考えています。
春の陽気の土曜日
東京は数日前から、春の日が続いています。私も、真冬用のコートをやめ、軽いのにしています。今日は快晴で、気温も20度を超える陽気となりました。北日本では暴風雪とのことです。被害がないことを祈ります。
職場は、人員増などによる模様替えをしているので、出勤できません。それを理由に、本日はお休みをいただきました。税金の申告書を提出したり、買い物に行ったり、本屋に寄ったり。ご近所のおばさま族につかまり、世間話も。
近所のお庭の梅の花は終わり、ミモザの鮮やかな黄色い花が咲き始めました。我が家の水仙は、お向かいのご主人が土を入れ替えてくださったので、今年は久しぶりに花を咲かせました。塀の陰で、日当たりも悪いのです。2つの茎に2輪ずつ。きれいなものですね。プランターのチューリップは、葉が伸びてきました。椿は、まだつぼみです。
近くのアパートには、運送会社のトラックが来ていました。学生さんの引っ越しのようです。春です。
大震災は日本を変えるか
今日は放課後に、異業種交流会に行ってきました。世界的な情報企業の幹部(若い日本人)、NPO幹部、日本を代表する新聞社記者です。年代が違い、住む世界が違う人との議論は、勉強になります。ふだん私が考えていることと、全く違ったもの見方や発想があり、考えさせられます。
例えば、「3.11で日本は変わったか」。
彼らは、「変わった」という意見と、「思ったほどには変わらなかった。なぜだろう」という意見でした。
私は、「変わらなかった」派です。日本社会の強靱さ、地域の助け合いなど、変わらなかったことの方が多かったと思います。この項続く5
地区ごとの住宅建築の見込み
昨日紹介した「公営住宅と民間住宅用宅地の建設見込み」について、市町村ごとさらに市町村内の地区ごとの時期と戸数の見込みを公表しました。例えば、宮城県山元町では、平成24年度中に26戸が建ちます(災害公営住宅単独の場合、新山下駅周辺)。ここは4月に入居できます。その後も、次々と完成する様子が見えます。もっとも、表の上段、面整備を行う場合(集団移転する場合)は土地の造成に時間がかかるので、住宅建設は遅れます。