緻密だが遅い法体系の国と、まずはやってみようという法体系の国と

25日の日経新聞「インタビュー領空侵犯」は、坂村健教授の「産業発展へ法体系変えよ。緻密さが革新を阻む」でした。
・・日本の法律文は、様々な状況や既存法との整合性に配慮しつつ緻密に作り上げたものです。欧州大陸に起源を持つ大陸法系です。一方、英米法系の米国などでは、成文の法律まずありきではなく、問題が起きたら裁判所に判断してもらい、その判例の蓄積が主なルールとなります。議員がその場限りのような法案を気軽に提出できるのも、意図した通りに進まなかったり手抜かりがあったりしても、司法が後で調整するという前提があるからです。近年、産業界の変化の速度はとても速く、大陸法のやり方で制度を最新の状況に合わせるのは不可能です。だから、英米法系の手法を取り入れるべきだと思っています。
・・日本では、優秀な官僚が整えたルールは緻密で時代に適合していると、長い間見なされてきました。だから、法の穴をかいくぐるような裏技的な動きは許されないという風潮が社会に生まれました。法律が明確に整備されてからでないと、まじめな日本人は怖くて動かなくなっています。特に責任やルールがあいまいな場合、大企業はリスクをとろうとせず、大胆なベンチャー企業だけが得をするということになるかもしれません・・
25日の朝日新聞「グローバル化の正体」、入江昭教授のインタビューから。
(グローバル化が始まった時期を)、経済史家は、1850年あるいは1870年ごろからだと見る人が多い。電信、電話、そして鉄道が発達して地上の距離が縮まり、貿易や金融、投資が飛躍的に発達し、世界が経済的につながったからです。
とはいえ、19世紀後半に始まったグローバル化はあまりにも欧米中心であり、世界の4分の1の人が残りの4分の3を抑えつける、植民地時代のものでした。国家は、グローバル化を利用して強大化しようとし、2度の世界大戦になった。ぼくは、現在まで続くグローバル化が始まったのは、1970年代だと考えています。
(以前のグローバル化と違うことは)、欧米中心でないことです。日本に加え、中国、インド、そして最近は南米が加わってきた。70年代になると、ほとんどの地域が植民地から解放され、世界中で誰でもグローバル化というゲームに参加できるようになりました。
国家の役割が低下したことも、大きな特徴です。多国籍企業が世界的に展開し、環境問題や人権問題に取り組む国際的なNGOが70年代に飛躍的に増加した。民族的な動きやイスラム教など宗教の力も強まった。いずれも、国家とは別個の存在です。現在のグローバル化は、国家の意思と離れたところで進んでいます。
(21世紀的な世界の特徴は)、我々は、環境問題や国際テロ、民族問題、エイズや飢饉など、グローバルな全人類的な問題に直面しています。これは21世紀的な問題です。それを20世紀的な方法、たとえば戦争とか先進国中心の国際秩序とか、大国任せとか、そんな方法で解決しようとしてもできません。21世紀の問題は、21世紀の方法で取り組まないと行けない・・

政策課題研究

今日から、自治大学校では、第1部課程学生の「政策課題研究」発表会が、始まりました。自治大では、座学のほかに、演習を重視しています。
特にこの政策課題研究は、その中でも、もっとも高度なものです。5人程度の班を編制し、地方の現場での課題を取り上げ、その解決のための政策提言をするものです。学生は、4月に入校以来、5か月をかけて、課題の設定、現地調査、政策の立案、実現可能性の確認などを行い、今日の発表会に至っています。自分で考え、班で議論し、実現可能性などを多角的に検討しなければなりません。
発表会では、同僚学生による質疑のほか、大森弥東大名誉教授、宮島勝東工大名誉教授ほか、本学で講師を勤めていただいている先生方からの、質問や講評もあります。なかなか厳しいものです。

政治と市場

24日の読売新聞「地球を読む」は、佐々木毅先生の「政治と市場」でした。
・・市場と政治の関係が、再び大きな関心を集めている。われわれの脳裏には、10年前のアジア・ロシアの金融危機と日本の金融機関の相次ぐ破綻の記憶が鮮明に残っている。
・・市場メカニズムが穏やかな下では、政治はグローバル化の旗振り役をしていればすむが、荒々しい調整が始まると、その力量と限界がとことん試されることになる。今、われわれは明らかに、この厳しい試練の時期にある。
・・政治の議論としては、二つの問題を区別する必要がある。第一は、荒れるグローバル市場を沈静化させ、安定的な経済成長の環境を回復するための、国際的な協調の仕組みを作れるかという問題である・・
第二は、こうした国際環境の整備がどうなるにしろ、日本政府が何をすべきなのかという問題である。この数年、政府は物価の安定と好調な国際経済に専ら寄りかかってきたが、今やこの条件はすっかり消失してしまった。
・・政府に危機感があるかといえば、国民に伝わってくるのは、政府の無力感ではなかろうか。この国では、「官から民へ」というのは、官民相互の無関心を助長する傾向があったが、物価の上昇が顕著になり始めたにもかかわらず、唯一最大の政治課題は相も変わらず消費税問題という発想は、この病理現象の現れではないか・・

アメリカ、公共施設の民営化と売却

25日の読売新聞が、提携しているアメリカのウォール・ストリート・ジャーナル紙の記事(8月23日付け)を紹介していました。「公共施設 For Sale 」です。アメリカの州や地方自治体が、空港から動物園まで、あらゆる公共資産の売却を進めている、という内容です。庁舎、水道事業、公営駐車場などです。原文はこちら
このホームページでも書きましたが(「国家観の違い」2010年6月29日)、ここには、アメリカ流の社会観が背景にあります。すなわち、社会のあらゆる組織機構と同じく、国家機構もまた、社会(一般国民)が自らの必要のためにつくったものです。官と民の間に、垣根がありません。これに対し、近代ドイツ国家学では、社会は弱肉強食、カオスの世界であり、中立公正な国家が弱者を救済し、秩序を保たなければならないと考えます。官(国家)と民(社会)が峻別されます。日本もこれまで、このような考え方でした。
しかし、日本が後進国から成熟国家になることによって、官が民間を主導して先進国に追いつくという構図は終わりました。また、公共施設や公共サービスは、それ自体は、公平かつ滞りなく供給されるように、官が監視する必要がありますが、供給行為自体は官がする必要はありません。象徴的な例が、国鉄の民営化であり、介護保険サービスの民間事業者との契約制です。

登山保険

先日、山の遭難に備え保険にはいるべきだと、書きました(山岳遭難の救助費用負担。8月12日)。25日の読売新聞家計欄が、登山保険を解説していました。「万一、山で遭難した際に備え、救援の費用を保障する保険」です。
・・民間救助ヘリを養成すると、1日数十万~100万円以上かかるという・・
詳しくは、原文をお読みください。