講談社のPR誌「本」2010年7月号、宇野重規東大教授の「二大政党制の終焉?」が、興味深かったです。ハンナ・アレントの政党制論を紹介して、政党の機能を論じておられます。アレントは、イギリスとアメリカの二大政党制と、ヨーロッパ大陸型の多党制を区分します。
・・アレントに言わせれば、二大政党制と多党制の違いは、単に問題の外面的な現れにすぎない。より根本的なのは、政治体制全体における政党の機能、権力との関係、国家における市民の地位であった。
イギリスにおいて二大政党とは、一方は現在権力を握り国家を統治している市民の政治的組織であり、他方は未来において権力を握り国家を統治する市民の政治的組織である。権力と国家は市民の手の届くところにあり、市民は政党に組み入れられることによって、今日の権力と国家を代表するか、あるいは明日の権力と国家を代表するかのいずれかとなる。諸政党の上にそびえるような国家は存在しない。
これに対し、大陸型の政党においては、諸政党の上にあくまで国家が別個に存在する。権力を担うのは国家であって政党ではない。政党政治と国家は疎遠であり、国家権力の中心に立つのはあくまで非党派的な官僚機構である。政党の方も自らを国家全体における部分利益の代表と自覚し、国民全体の利益の代表はすべて国家に委ねてしまう。その上で、権力を自ら構成するという重荷を負わず、自らの特殊利害を議会で表明する役割に徹するのである。すなわち、大陸型の政党は公然と自らを部分利益の代表と認めるが、そこには、政党の上に立つ国家が全体利益を実現するはずであるという前提があった。
イギリスの場合、二大政党は交互に、あくまで一時的にではあるが国家となる。政党が権力を構成する以上、政党とは別途に存在する国家は存在しない。したがって、この制度の下では、政党は特定の社会集団の特殊利害の代表者ではなく、あくまで国全体を代表するべきとされる。結果として、政党はそれ自体が特殊利害の担い手であるあるわけにはいかず、むしろ多様な利害は、各政党の内部において代弁されることになる。そのような利害は党内闘争において表明され、それにしたがって党内に右派と左派が形成される。言い換えれば、政党とは、それ自体が、多様な利害が表明されるべき公的なフォーラムなのである・・
・・このようなアレントの議論が示唆するのは、問題が政党の数ではないということである。より本質的なのは、政党が特殊な利害の代弁者ではなく、多様な利害を調整するためのフォーラムになりえているかどうかである・・(この項続く)