部分と全体1/2

ハイゼンベルク著『部分と全体』(邦訳1974年、みすず書房)を読み終えました。著者は1901年ドイツ生まれの物理学者で、24歳で量子力学を創始し、不確定性原理を発見、ノーベル物理学賞を受賞しています。1976年に没。本の内容は、仲間の科学者との対話の形式をとった、自伝です。科学理論はこのような過程で究められるのかと、感激を覚えます。
部分と全体という問題そのものを、考察したものではありません。しかし、彼は自らの伝記に、このような表題をつけました。物理学だけでなく、哲学、音楽、宗教、政治とのかねあいまで、彼の関心は広いです。そして、常に部分と全体の在り方を考えていたのでしょう。随所に、関連する記述があります。
私には量子力学はわかりませんが、昔から本屋でこの表題が気になっていました。私の関心にあっては、部分と全体は、国家統治機構の部分と全体であり、行政組織の部分と全体の在り方です。国と地方の関係にあっては中央集権と地方分権であり、組織管理にあっては集中と分散です。このテーマは、私にとって一生の課題ですが、すべての組織にとって永遠の課題でしょう。
ところで、対話の相手に、カール・フリードリッヒ・フォン・ワイツェッカーという哲学者が出てきます。よく似た名前だなあと思って調べたら、ドイツ大統領になったリヒャルト・カール・フォン・ヴァイツゼッカーのお兄さんでした。

2010.05.08

大学院の授業は、第2章「政府の対応-進む対策」に入りました。社会のリスクの分類に応じて、近年とられた対策を具体的に取り上げています。武力攻撃や自然災害については、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、北朝鮮ミサイル発射などを契機に、国と地方の危機管理は大きく進みました。

天候不順の影響

今年は、春先に温かくなり、その後に寒い冬に逆戻りしました。桜の花が長持ちしましたが、草花にはつらい気候だったようです。わが家では、玄関先の夏椿が、芽を出したまま、3分の2の枝が枯れてしまいました。毎年楽しませてくれた鉢植えの八重桜も、つぼみのままで枯れてしまいました。知人の庭では、つぼみをつけたユスラウメが、全く花を咲かせなかったとのことです。

〈私〉時代のデモクラシー

宇野重規著「〈私〉時代のデモクラシー」(2010年、岩波新書)を読みました。現在の日本や先進国で、自由と平等が達成できたことが、社会の不安と不満を生んだことを、極めて明快に分析しておられます。個人を縛り付けていた、イエや宗教といった「伝統」から自由になることを目指したのが、近代でした。また、身分や所属する団体による不平等を撤廃することを目指したのが、近代でした。それを達成した「後期近代」になって見えてきたものは、あらゆることを自分で判断しなければならないという負担であり、その選択に責任を持たなければならないという不安です。また、中間集団の希薄化は、個人の砂状化とともに、政治への回路をなくしてしまいます。ここにに、従来の政党は、不満の吸い上げと利益の配分に機能しなくなります。
私は「新地方自治入門」で、個人・社会・政治にとって、中間集団が大きな機能を果たしていること、そして従来型のイエ・ムラが希薄化し、新たな中間集団が必要なことを論じました(p210)。また、自由・平等・豊かさを達成した日本において、次なる理想は何か、戦うべき「敵」は何かを議論しました(p308)。さらに、いま大学院で講義している「社会のリスク」の項目の一つに、「社会関係の不安」をいれているので、非常に参考になりました。
新書というサイズには、大きなテーマですが、わかりやすく書かれています。ここではすべてを紹介できないので、ご一読をお勧めします。

大型連休も終わり

大型連休も今日で終わり。今年はカレンダーに恵まれ、まとまった連休でした。皆さん、お休みを楽しまれたことでしょう。どこも、大変な人出だったようです。明日明後日にお休みをとって、さらに連続休暇の方も、おられるでしょうね。
東京は天候に恵まれ、3月4月の雨と寒さが嘘のような毎日でした。小生は、大問題だったホームページ故障が仮復旧でき、回復のめどが立ちました。大学院の準備も進みました。家の掃除や整理もできました。家族サービスも、少しだけ。もちろん、いつものように「あれもしよう、これも読もう」と無計画に欲張った希望は、達成されませんでした(笑い)。でも、いくつかの懸案事項も片付けられたので、良しとしましょう。
この期間、お商売の方や交通機関の方、また消防・警察・病院といった交替制勤務の方は、お勤めありがとうございました。皆さんのおかげで、安心してお休みを楽しむことができます。