教育バウチャー

5日の日経新聞「教育」は、渡辺美樹さんの「教育バウチャーの意義」でした。その主張は、原文をお読みください。私もバウチャー導入論者で、渡辺さんの論旨に賛成です。競争のない世界は、進歩しません。
「教育に競争はなじまない」という反論もありますが、既に、学校では満足できず、多くの父兄が子供を塾に行かせています。また、都会では私立学校を選んでいます。教員の競争なのか、生徒の競争なのか、曖昧にした議論はおかしいです。バウチャーの趣旨は、生徒によりよい教育を提供するために、教員と学校が競争するのです。そして、公私立間の公費格差も解消できます。
さらに、「田舎では選ぶだけの学校がない」ということを、反論にされる方がいます。そのようなところまで、導入する必要はないのです。このような反論は、意味がないですね。(11月5日)

昨日、「教育バウチャー」を書きました。現在では、公立学校と私立学校への公費補助は、大きな差があるのです。学校への補助でなく、生徒(保護者)への補助にすれば、この格差は解消します。
6日の東京新聞に、「冷遇、外国人学校に光を」が載っていました。日本には既に200万人の外国人が住んでいて、その子供たちの教育が問題になっています。公立学校でなく、外国人学校に行く子供もいます。この子供と学校には、公費は投入されていません。さらに、授業料に消費税もかかるのだそうです。
「国民」じゃないから、というのが理由だそうですが、税金は取っておきながら・・。これでは、「法の下の平等」なんていっても、むなしいですね。

価値を生む経済、バブルの経済

今回の国際金融危機が示したことは、実体経済を伴わない金融は、いずれは立ちゆかなくなるということでした。バブル経済の一種だったのです。1980年代後半の日本のバブル経済と比べると、土地を担保にした点は同じです。違ったのは、債券化されより複雑化し、そして世界中に売られたことです。国際金融の規模が、実物経済より大きくなったことは、早くから指摘されていました。
目を歴史に転ずると、もの作りや貿易でリードした国が、金融で儲ける国に「進化」し、そして衰退する例があります。イタリアの都市国家、オランダ、イギリスです、今のアメリカが、その道を歩むのかどうか。
もちろん、金融が悪ではありません。実物を伴わないものは、ゲームであり、いずれ破綻するということです。かつて、金融には「裁定型業務」と「価値創造支援型業務」の二つがあるという、池尾和人教授の主張(2008年9月21日)を紹介しました。
経済が成長するためには、モノなりサービスなり、価値を生まなければなりません。そして、これからの日本は、そのうちの何を伸ばすのか。

消防大学校で家を燃やす

今日は、消防大学校で、家を燃やしました!!!。
火災調査科が、火災原因調査の実習をします。そのために、模擬の家屋を燃やすのです。コンクリートでできた、巨大な体育館のような実験棟があり、その中で燃やします。
「電気製品などから、出火した」という想定です。8畳ほどの家を造り、家具や衣類、電気製品などを入れて、本当の住居のようにします。結構、本格的な家です。そして、教官が「原因を仕組んで」、出火させるのです。
しばらくすると出火し、煙もすごくなり、あっという間に火が回ります。私たちは、最初は近くで見ていますが、そのうちに危なくなるので、観察できる部屋からガラス越しで、見ています。それでも、結構な熱さです。
実験棟には、天井に家庭の台所にあるガスレンジのフードのお化けみたいなのがついていて、煙をきれいにする装置もあります。
屋根まで火が回った段階で、学生(各地から入校している消防職員)が入ってきて、消火します。消火はお手のものです。しかし、学生たちには、発火の段階を見せないのです。ここがミソですね。
消火した家の残骸は、外へ運び出します。運び出しやすいように、模擬家屋は台車の上に乗っています。そして、学生たちが、残骸から灰をかき出して、原因を探すのです。
今日は、合計4棟の家を燃やしました。私は解説付きで見ていましたから、原因はわかっています。でも、学生たちは、灰の中から、原因を特定するのです。たばこの吸い殻なのか、電機製品なのか、電気の配線なのか???? 推理小説、刑事コロンボみたいですね。たいしたものです。

経済に対する司法の役割

25日の日経新聞経済教室「経済事件と司法」は、郷原信郎教授の「刑事罰、制裁機能適正化を」でした。
・・規制緩和・経済構造改革により、企業・団体の自由な活動が保障される一方で、経済法令違反に対し事後的に適正で効果的な制裁を科す「制裁システム」の整備が不可欠となっている・・
・・旧来の刑事司法は、個々の犯罪に対し適切な事実認定と科刑を行うことで基本的には事足りた。犯罪は普通でない人間の「非日常的世界」であり、それに関する司法判断が、社会生活や経済活動に一般的影響を与えることはまれだった。
しかし、経済社会のルールの実効性を担保するための制裁を刑事処罰によって行うのなら、そこで示される判断は、個別の事件についての適切さだけでなく、経済活動に対して広く適用されるルールとして普遍性を備えたものでなければならない。またそこでは、犯罪を、取引相手の具体的被害という観点ではなく、それが市場の公平さをいかに害したのかという「市場法的観点」中心にとらえる必要がある。
そうした方向で刑事司法を経済社会における制裁システムとして適正に機能させるには・・・(続きは、原文をお読みください)
経済活動の変化に応じて、立法や行政がルール設定を行います。それだけでなく、司法の役割も重要だということですね。

ロールモデル・お手本になる先輩

昨日の続き(「科学の伝道師」11月1日)です。鎌田先生は、新著『知的生産な生き方』(2009年、東洋経済新報社)で、「ロールモデルを求めて」を副題にしておられます。先生の言葉を借りれば、「自分の人生で目標とする具体的な像」です。
社会人なら誰でも、多かれ少なかれ、人生の「お師匠さん」がいるのではないでしょうか。お手本にしたい上司とか先輩とか。本で読んだ偉人でという場合もあります。そのようなお師匠さんに巡り会えると、幸せですよね。
「人生は、白地のキャンバスに絵を描くようなものだ」という表現もあります。しかし、会社員にせよ科学者にせよ、全く白地からのスタートでは、あまりに負荷が多すぎます。それに、普通は、自分の属する会社や学会と全く離れて、独自の創作をすることはあり得ません。
お師匠さんをお手本にして、少しでも近づきたいと思う。そして、できれば、お師匠さんを越えていく。人生って、そのようなものではないでしょうか。そのお師匠さんは、親であったり、上司であったり、先生であったり・・。
しかし、しばしば、お師匠さんには近づけず、できの悪い弟子で終わります。また、お師匠さんを越えなければ、それはエピゴーネンで終わるのでしょう。
もっとも、「あの先輩のようには、なりたくない」という、反面教師のロールモデルも、よくある話です。自ら反省。