校長の仕事・訓練学習

今日は、救助科61期の総合想定訓練を、見ました。開始と終了時に、式台で報告を受けます。敬礼を受け、敬礼を返します。隊員(学生)のきびきびした動きは、ほれぼれします。
今日は制服でなく、動きやすい執務服です(消防大学校では、そう呼んでいます。救急隊員が着ているような、現場用のオレンジと紺色の作業服です)。今日は、帽子をかぶっているので、敬礼は軍隊式の挙手です。入校式は室内なので、帽子は持ったまま、前傾姿勢でした。
総合想定訓練は、卒業前に行われる、卒業演習といってよいでしょう。60人の学生が、2中隊に分かれ、想定に沿った訓練をします。
第1中隊は、大学の化学実験中に、薬品を倒し、負傷者が出ているという想定です。今日はシアン化合物でした。地下鉄サリン事件を、思わせます。
指揮車、消防車、救急車などが、サイレンを上げて到着します。そして、防護服を着た隊員が、救出に向かいます。もちろん、薬品がどこまで漏れているかわからず、それを確認しながらです。
空気ボンベを背負って防護服を着ていると、隊員同士の意思疎通も、難しいです。トランシーバーを持っていますが、防護服の中で、呼吸用のマスクをしているのです。声は、聞こえにくいでしょうねえ。防護服の右手が、時々ぶらぶらしているのは、手は服の中で、トランシーバーを操作しているからです。
それ以上に、被害者との会話も、難しいです。防護服は、空気が漏れないのですから、声は基本的には外に伝わりません。どうすると思いますか?防護服の前に、「あなたを救出にきました」という趣旨を書いた紙を、ぶら下げるのです。なるほど。
もっとも、負傷者役の学生の何人かは、寝転がったままで、反応しません(これも演技)。救出された負傷者は、テントの中でシャワーで除洗します。負傷者役の学生は、冷たかったと思います。もちろん、救急隊員も、防護服を除洗します。後始末が、大変です。

第2中隊は、ビルに乗用車が突っ込み、1人が車の下敷きに、1人が車内に閉じこめられたという想定です。乗用車は、窓ガラスをブチ割り、さらにペンチのお化けで窓枠などを切り、天井をはね上げて、負傷者を救出します。なるべく負傷者を傷つけずに、救出するためです。ここで、訓練のために用意した乗用車(廃車)が、1台スクラップになります。
その後、ガソリンに引火し、ビルが燃えます。発煙筒が、たかれます。建物に取り残された人がいる、という条件もつきます。盛りだくさんな訓練です。関係者役の学生が、「家族が取り残されている」と叫びながら、救急隊員にすがります。迫真の演技でした。救急隊員が、ビルの3階にはしごをかけて突入し、窓の鉄格子をカッターで切るのも、手際のよいものです。これも、煙と放水のシャワーの下でです。

私は、風上の少し離れた地点で、見ていたのですが、風向きが変わってシャワーを浴びました。これがサリンだったら、今日のHPは、書いていませんね。
しかし、肝心なのは、カッター操作や放水ではありません。我が大学校の学生は、それを指揮することを学びに来ています。30人の隊員を指揮する。混乱した現場では、大変なことです。

海外に出て行かなかった日本

「海外で競争しないことが日本の停滞を招いた」に関して、参考になる記述を挙げておきます。
石倉洋子一橋大学教授は、企業戦略についての著書「戦略シフト」(2009年、東洋経済新報社)で、世界で戦わない企業を「鎖国派」と名付け、鎖国派の特徴を、次のように書いておられます(p46)。
1 ICTに対する理解と自らの経験不足
2 世界が狭いこと
3 試してみることの回避
私の主張に引き直せば、1は、日本を含めた世界・社会・経済が大きく変化していることへの無理解です。2と3は、先生の表現の通りです。
また、前東京大学総長の小宮山宏先生は、「課題先進国日本」(2007年、中央公論新社)で、次のように書いておられます。
・・・明治維新からちょうど100年経った1968年に、日本は世界第2のGDPを達成するまでになった。GDPが世界第2位になったということは、・・・世界のトップランナーの仲間入りを果たしたといってよいであろう。
その1968年に、日本人は、明確に「これからは先進国として、世界を先導し、世界に貢献しながら発展していく」と考えるべきであった。しかし、そうは考えなかった。だから私は、そのときから日本は失われた時を過ごしていると考えるのである・・」(p46)

校長の仕事・入学式

今日は、消防大学校で、救急科71期生34人の入校式がありました。校長は制服で、式辞などを述べます。学生も、もちろん制服で、動作はきびきびと、全員がぴしっとそろいます。さすがです。
こちらも、歩く姿勢や敬礼をする動作に、気が張ります。お茶を習っていた時以来ですかね。ちゃんと、手の指先も伸ばしました(古くからこのホームページを読んでくださっている方は、この意味がおわかりですよね)。
校長講話も、行いました。彼らは、これから約2ヶ月間、寮生活をおくりながら、勉強にいそしむことになります。当校は、知識だけでなく、技術の習得も重要です。
今日も、校庭や訓練棟では、すでに入校している救助科の学生が、実技訓練をしていました。ビルの屋上や、川の中州に取り残された人を救出する、という設定などでの訓練です。皆さんもおなじみの、あのオレンジ色の出動服で、ロープを張ったりしています。雨の中です。災害は、天気を選んでくれません。というより、中州に取り残されるのは、雨の日です。
今日の訓練は、学生たちが、企画して行っているものです。もちろん、最初は、教官が指導するのですが、授業が進むと、このような授業もあります。学生は、親元に帰ると、他の人たちを指導する立場にあります。すると、訓練の企画力も必要になるのです。

追いかけられなかった日本・競争相手のいなかった日本

日本のリーダーと国民が、世界第2位の経済大国になった時に、海外で新たな挑戦をせず、国内に閉じこもったことには、次のような背景もあります。
一つは、古来変わらない、人間の意識です。人は、成功体験に縛られます。「これまでこれで成功したのだから、これからもこれで行こう。無理をして変えることはない」というものです。
そして、それでもしばらくの間、日本が発展できることを許したのが、国際環境です。これが二つ目の背景です。
すなわち、日本は、欧米先進諸国をお手本に、追いつけ追い越せで頑張りました。ところが、その日本を追いかける国が、いなかったのです。その後から発展した諸国、アジアでは韓国、中国、タイなど。世界では、ブラジル、インドなど。それぞれの事情で、日本に続いて来ることがなかったのです。それらの国の発展は、1990年代を待たなければなりませんでした。これらの国が、もう少し早く発展しておれば、日本は、欧米を追いかける利益を、独占することはできなかったでしょう。すると、「お尻に火がついた」状態が、日本人にもっと早く、認識されたと思います。
日本の政治リーダーたちが、アジアや世界を意識に入れておれば、違った世界になっていたでしょう。しかし、相変わらず、輸出市場として、あるいは観光先として、せいぜい政府開発援助先としてしか、考えなかったのではないでしょうか。
国際社会の中での日本を考えることは、国内では「追いつき型思考」ではなく、「新たな挑戦思考」を導きます。世界では、世界秩序構築に貢献し、また、日本の国益を追求することにつながります。
この点、戦前の日本人の方が、アジアや世界を考えていた、と思えます。それは、世界の列強に仲間入りし、伍するためでした。世界は弱肉強食であるというイメージに、おびえていたからでしょう。ただし、それが戦争につながったことから、手放しで評価はできません。
一方、戦後の日本は、平和憲法で戦争を放棄し、国際的な紛争に参加しないことで、「世界は平和だ」と思いこんだのかもしれません。そして、それは、じっとしていても享受できると、思いこんだのでしょう。すると、積極的に参加しなくてもよいと、思いこんだのでしょう。(続く)。