28日の日経新聞連載「日本の教育」「学びの針路を示せ」から。
・・ゆとり教育を含む1970年代以降の教育改革は、明治初期、太平洋戦争直後に次ぐ「第三の教育改革」と呼ばれる。明治と戦後の改革は、それぞれ「富国強兵」「民主国家建設」といった大目標とつながり、教育が発するメッセージは明快で、人を律する動機づけにもなった。教育を受けた人材が社会革新や経済発展に携わる姿が、親世代の教育熱、子世代の学ぶ意欲を支え、教室に緊張感を生んだ。そんなダイナミズムが、今の教育にない・・
・・方向を失った日本の教育が、目標を打ち立てるのは容易ではない。作家の堺屋太一氏は「教育のあり方がわからなくなった」と言う。物材の豊かさが幸せを意味した規格大量生産の時代は、共通の知識・技能を持ち辛抱強い人材を育てればよかった。主観的な「満足」が幸せの尺度になった現代では、この手法は通用しない。どういう教育を施せば子供が幸せになるか、一義的に定まらなくなった。堺屋氏は「望ましい教育の姿がわからないなら、教育の消費者である保護者や子供に選ばせるべきだ」と主張・・
私が主張する「日本社会と行政の転換」と合致した主張です。ただし、戦後の教育の目標が「民主国家建設」とありますが、それよりは、豊かになるための労働者の創出の方が、主だったと思います。多くの家庭では、民主主義よりは、豊かになることが重要だったのですから。
そして、明治と戦後の転換には、欧米という目標・お手本があったのに対し、今模索している転換の目標は、「目標と幸せを探すこと」なのです。教育は、目標を次なるものに取り替えるのではなく、各人の目標探しを目標とするという、パラダイムの転換が必要なのです。日本の教育行政は、それに失敗しているようです。