昨日の続きです。原研哉さんの連載第1回「美意識は資源である」(「図書」2009年9月号)から。
・・成田空港に降り立ち、素っ気ない空間を入国審査所に向かって歩き始める時、きまって感じることがある。空間は面白みがなく無機質だが、なんと素晴らしく掃除の行き届いた場所だろうかと。床のタイルはどこもピカピカで、床の上で転がり回ってもさして服は汚れないのではないかと思うほど。カーペットを敷きつめた床も清潔だ。仮にシミがあっても、それを除去しようと最善の努力をはらった痕跡がある。おそらく掃除をする人は、仕事の終了時間が来ても、モップや掃除機をさっさと片付けたりしないで、切りのいいところまで仕事をやりおおせて帰るに違いない。この丁寧さが、他国から帰ってくると切実に感じられる・・・
掃除をする人も、工事をする人も、料理をする人も、灯りを管理する人も、すべて丁寧に篤実に仕事をしている。あえて言葉にするなら、「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」。そんな価値観が、根底にある。日本とは、そういう国だ。
これは、海外では簡単に手に入らない価値観である・・
特別な職人の領域だけに高邁な意識を持ち込むのではなく、ありふれた日常空間の始末をきちんとすることや、それをひとつの常識として社会全体で暗黙裏に共有すること。美意識とはそのような文化のありようではないか。
もの作りに必要な資源とは、まさにこの「美意識」ではないかと、僕は最近思い始めている。これは決して比喩やたとえではない。ものの作り手にも、生み出されたものを喜ぶ受け手にも共有される感受性があってこそ、ものはその文化の中で育まれ成長する。まさに美意識こそ、ものづくりを継続していくための不断の資源である。しかし一般的には、そう思われていない。資源と言えば、まずは物質的な天然資源のことを指す・・