29日の朝日新聞「耕論」は、「参院選、この一票」で、待鳥聡史教授、松原隆一郎教授、宇野重規准教授の三方が意見を述べておられました。本論から外れることもありますが、興味深かった部分を紹介します。
・・参院と内閣の間に、どういう関係が成り立っているかがポイントになるが、私の考えでは、参院は内閣との間で信任関係をつくっていない・・衆院は内閣を不信任できるし、内閣側は衆院の解散権を持っている。だが、参院は内閣を不信任できず・・つまり、参院は議院内閣制の中で例外的な存在なのだ。
・・衆院への小選挙区制の導入やマニフェストの普及によって、衆院選の政権選択選挙としての性格が確立し、衆院と内閣をめぐる新たな制度的枠組みができつつある。参院と内閣、参院と衆院の関係も、それに応じて変わっていくべきではないか・・(待鳥教授)
・・個人と社会の関係から考えよう。戦前は、天皇とわれわれ赤子としての国民、というつながりが社会に秩序を与えた。家族制度も強かった。戦後はいずれも崩れ、かわって個人と社会の間に企業と官庁が入ってきた。長期雇用制度のもと、家族的な関係でもあった。いま、官庁は弱体化し、企業も変化している・・媒介だった企業の求心力が下がった後、個人と社会の関係はどうなるのだろうか・・
年金の問題は、社会の仕組みをどう作るかでもある。高齢者の扶助は、かつて家族が行ってきたが、それができなくなり、社会が行うようになった。若い世代が同時代の高齢者を支えるのが賦課方式だが、これは世代を超えたつながりをイメージしている。この制度が良いか悪いかは別にして、一つの社会モデルだ・・
「どうせ、なるようにしかならない。でもそう悪くはならないだろう」といった信頼があったため、選挙から足が遠のく人が増えていた。しかし信頼は崩れた・・(松原教授)
今回の参院選の特徴は、争点が憲法から格差、さらに年金と、脈絡なく入れ替わっていったことだ。この「脈絡のなさ」には、二つの意味がある。一つは、各党が争点を選ぶ際、これまでの自党の議論や政策をどれだけ踏まえたのか疑わしいという意味だ。もう一つは、自党が主張する争点が他党との間でどのような関係にあるのか、なぜ自党の争点が他党の争点より重要なのか、説得力ある議論がなされていないことである。
・・今の時代、私たちは日々、自らの生活のあらゆる側面で責任を問われている・・そんな中で、どこまでが自分で選択し処理するべき問題で、どこからが自分の力では解決しようがなく、社会や周りの人の力を借りてやっていく問題なのか・・「私」と「公」の線引きと言い換えてもいい。公があって私があるのではなく、私では対応できない問題を公の問題として再定義していくしかない・・(宇野準教授)