4月28日朝日新聞異見新言、市野川容孝准教授「格差問題、制度的不平等の是正こそ」から。
・・格差是正ということが、日本の政治でも言われるようになった。新自由主義の批判もなされている。しかし、そこでは批判や是正の対象が否定的に発見されているだけで、それらに代えて目指すべき理念を肯定的に表現する言葉が欠けている。出発点は見えていても、目的地にははっきりした名前がないのだ。
その名前の一つとして、私たちは「社会的」という言葉を、改めて吟味しなおすべきではなかろうか。
・・ルソーの言うように、確かに自然は人間を不平等にする。男に生まれる人もいれば、女に生まれる人もいる。障害をもって生まれる人もいれば、そうでない人もいる。これらの不平等や差異はみな、本人の努力の結果そうなったものではなく、だから、その人個人の力ではどうにもできない部分が大きい。そうした差異を超えて、あえて人々を平等にする約束のことを、ルソーは「社会的」な契約と呼んだが、その契約の一項目には、人種差別や障害者差別の撤廃が入るはずだ。しかし、個人の努力ではどうにもならない不平等は、自然だけが生み出すわけではない。親の経済力による子どもが受けられる教育の差、地域の医療サービスの差・・。
ルソーの言った「社会的」な契約は、自然が生み出す不平等のみならず、それと同じように個人の力では何ともしがたい、このような制度的不平等の是正をも求めるものだと私は思う・・