地方分権改革推進委員会

地方分権改革推進委員会が発足し、HPも開設されました。2日には、第一回会合が開かれ、総理が次のように挨拶されたとのことです。
「地方の活力なくして国の活力なし」の考え方の下、国が地方のやることを考え、押し付けるという、これまで続いてきたやり方は捨てるべきである。地方が自ら考え、実行することのできる体制作りが不可欠であり、そのためには、国と地方の役割分担を明確化することが必要であり、各省庁の利害にとらわれず、役割分担の見直しをお願いする・・・本委員会において、5月末頃までには、地方分権改革の推進に当たっての基本的な考え方をお示しいただき、秋には中間的なとりまとめをお願いしたい。

西尾勝先生は、次のように述べておられます(3日付け読売新聞)。
分権改革でいま残っている課題は、どれも関係省庁が同意しそうもない課題だ。何とか同意を得られるものは、前の推進委時代にほとんどやってしまった。従って、政治主導でやる必要がある。推進委は、省庁の賛否にかかわらず、改革原案の立案に専念し、それを実行するかは内閣が決める体制にすべきだ。首相と少数の閣僚による「地方分権改革推進閣僚会議」の設置が必要だ。この閣僚会議は、地方六団体の代表と必ず協議する慣習を確立してほしい。

3日の東京新聞社説は、次のように述べています。
新推進法は旧法の仕組みを踏襲したが、違う点もある・・旧法にあった委員会の勧告や意見に対する首相の尊重義務が削除されたことだ。旧法ではこの規定が“あだ”となり、委員会はあらかじめ各省庁と調整し、受け入れられた勧告しか出せなかった。今度は役所の顔色をうかがう必要はない。分権型社会を目指し、大胆な改革案を示してほしい。
もともと、霞が関の官僚との戦いは民間人の委員の手には負えない。政治家の仕事である。本気で分権改革を進める気なら、首相はどんなに抵抗が強くても、関係省庁に勧告の実行を迫っていく覚悟を持たねばならない・・・

社会人先輩の反省

新年度が始まりました。たくさんの人が、新しい人生を始められたでしょう。それぞれに希望を持って、今日を迎えられたと思います。その思いを持ち続け、仕事に勉強にがんばってください。我が家も、娘が新採研修のため会社の寮に入り、さみしくなりました。先日、「社会人の心得」を書いて渡しました。
娘曰く「お父さん。自分ができなかったことを、書いたでしょ」
父「その通り。30年間の失敗を反省して、書いた」
娘「そんなあ・・・」

イノベーション

日経新聞経済教室の27、28日はイノベーションでした。藤本隆宏教授は、次のように主張しておられます。
マスコミのもの造り報道は、感動的な話や良い映像が撮れる伝統的製造現場の名人芸に集中しがちだが、もの造りが日本経済に与える影響は、それよりずっと広い。「開かれたもの造り」の根幹は、「もの」ではなく「設計」にある。もの造りとは、ものをつくることではなく、設計情報を「ものにつくりこむこと」である。生産現場だけでなく、開発も購買も販売も含まれる。また、製造業の枠も超える。付加価値の根源は設計情報にあり、それが有形の媒体に転写されれば製造業、無形の媒体に転写され顧客に発信されればサービス業になる。
日本経済のうち、もの造り組織能力や生産性で世界をリードするのは、製造業を中心に国際競争にさらされてきた「競争貫徹部門」だが、それはおそらく10数%にすぎない。大きなウエートを占めるのは、非製造業を中心に規制や保護、談合などで国際競争力を欠く「競争不全部門」である。この部門の大幅な生産性向上には、規制緩和・民営化・構造改革だけでなく、組織能力の注入が大事である。IT導入の必要性もいわれるが、ITという固有技術だけでは、競争優位は得られない。ITが生産性に結びつくには、ITを使いこなすもの造り技術が必須である・・・
納得しますね。官庁という最大の「競争不全部門」「サービス業」にいると、絵にはならない技術・ノウハウの重要性がよく分かります。管理職の能力の差や、組織が持つ無形の能力の違いは大きいです。ところが、これはマニュアル化、文書化されず、口伝と伝統で引き継がれてきたのです。「明るい係長講座」では、その重要性を指摘しました。
「人を育てる」といった人材育成論は、本屋にもたくさん並んでいます。しかし、それは個人の能力向上に着目したものであって、組織の側・仕組みとしての能力の観点からは、書かれていないのです。「ほう・れん・そう」だけでは、だめです。将来、時間ができたら、行政のあり方論と関連させて、官庁部門での「開かれたもの造り」技術を書いてみたいです。後輩たちに無駄な苦労をさせないためにも、国民にもっと効果的な行政サービスを提供するためにも。

新しい仕事47

25日の日経新聞読書欄「経済論壇から」(大竹文雄さん)から。
春闘は、ストを背景に大幅賃上げを獲得できたころの労働者の一体感はもはや存在しない。労働組合の存在感は、政治的にも小さくなった。この原因を、伊藤惇夫氏は次のように分析している(文藝春秋4月号)。かつての労働運動は、貧しさや厳しい生活環境から抜け出すため、勝ち組である経営者側から、少しでも多くを奪い取るための闘いだった。ところが、大企業の正社員と官公労働者が大半を占める連合の組合員は、いつの間にか勝ち組になっていた。春闘は、勝ち組の内輪のイベントになり、多数派である未組織労働者の共感を得られなくなった。
正社員が既得権益を守る立場になった経緯を、城繁幸氏は次のように述べている(VOICE4月号)。バブル崩壊で継続的な成長の見込みがなくなった日本企業は、労務戦略の大幅な見直しを迫られた。しかし、問題は日本には「一度上げてしまった序列も賃金も、引き下げるという慣習がまったく存在しない」ことだった。賃下げのため、日本企業がとったのは「年功序列的」な対策だった。既存の中高年世代の賃金には手をつけず、ひたすら若者の昇級昇格を難しくし、非正規雇用という形で低賃金で若者を抱え込んだ。
それぞれ、なるほどと思いますね。そして、「一度上げてしまった序列を下げる習慣がない」という指摘には、目を開きました。校長や教頭が、適格性がない場合に、一般教員に降格する仕組みがあります。管理者側からの降格だけでなく、本人の希望によるのもあります。このような仕組みも、もっといろんな職場にひろげる必要があるのでしょうか。