高校と大学の機能

15日の日本経済新聞連載「大学激動」「受験で合格、今や少数派」から。
「今春の私大入学者の44.8%が推薦入試組。AO入試を加えれば、今や一般入試組の方が少数派だ。40.4%の私大が定員割れになる中、全員合格状態の一般入試も増える」「家庭で全く勉強しない高校生が4割という調査もある・・日本の教育をゆがめた元凶と批判されてきた大学入試。少子化と大学過剰の環境で、勉強しなくてはというプレッシャーが急低下する中、入試に変わる学習の動機づけを何に求めるのか。皮肉な課題が浮上してきた」。
学歴だけが基準だという問題を解消する方向に向かっていると、私はよいことと考えています。
社会の条件が変わると、高校や大学の意味・機能が変わるということですよね。少数のエリートが行く時代は、高校と大学は学問を教えるところでした。しかし、全入になると、変わってきます。
社会や本人たちの立場から考えると、行きたくない学生を無理に行かせている、その後の職業人や社会人に必要な教育をおろそかにして学問的教育ばかり教えている、といった問題点が浮かび上がります。今の学校は、供給側の論理が優先されているのです。一方で、学生たちはしたたかで、おもしろくない授業は出ない、アルバイトに精を出し、大学と高校の多くは、若年失業者収容所になっています。(8月16日)
31日の日経新聞経済教室は、スイスにある経営開発国際研究所の「世界競争力ランキング」が紹介されていました。ここでは、大きく4つの分野、マクロ経済・政府の効率性・ビジネスの効率性・インフラに分けて、各国の競争力を比較しています。もちろんその4つの分野には、いくつもの指標が含まれています。政府の効率性には、政策決定の実施、政策の方向、適応性、中央銀行の政策などなど。
私は「新地方自治入門」で、地方行政の成果として、道路、下水道、学校、医療、介護の数字を50年前と比較して示しました(p9)。また、地域の財産として、新国民生活指標(p187)や、自然環境、公共施設、制度資本、関係資本、文化資本を提示しました(p190)。
地方自治体が地域の実力を考える場合には、私が提示したような項目を考える必要があるでしょう。もっとも、まだまだそうなっていないことを指摘したのです。公共事業に重点を置きすぎて、自治体の首長や企画部門は、そこまで考えていないのではないかという批判です。
一方、中央政府が、世界の中の日本を考える場合には、このような外国との競争力比較も必要なのでしょう。この研究所以外にも、このようなランクを発表している所があります。もちろん、それぞれの指標の取り方には、異論もあるでしょうが。私の関心は、その順位よりも、どのような項目が要素として拾い上げられているかです。国政レベルでは、誰とどのような部門が、このようなことを考えているのでしょうか。(8月31日)
8日の朝日新聞は、「経済法制、改正ラッシュ」と題して、近年の民事・経済法制の大改正を解説していました。確かに、明治、戦後改革以来の大型改正が続いています。会社法改正、民事再生法、中間法人制度、公益法人制度改正、金融商品取引法などなど。このHPでも会社法改正などについて書きましたが、経済社会が大きく転換していることの反映でしょう。このような経済の変化に対する政治と法律の対応を、政治の仕事という観点から、どなたか簡単に解説してもらえませんか。(9月8日)
OECDの調査で、高等教育への公的支出のGDP比は、日本が最低とのことです(日経新聞他)。また、13日の読売新聞「ポスト小泉を考える、医療改革」では、二木立教授が、日本の医療費のDGP比が、先進7か国中最下位であることを指摘しておられました。
医療費が少ないことは、国民が健康だからという言い訳もできますが・・。蚊のいる島といない島では、蚊のいる島の方がGDPが大きくなるとは、私が学生の時に知った、都留重人先生の説でした。蚊取り線香とか殺虫剤がいるからです。もちろん、蚊がいなくてGDPの小さい島の方が、住みやすいのです。
しかし、私は「小さい政府」というスローガンに、疑問を持っています。別の所でも書きましたが、かつては、税金はお代官様に召し上げられるお金でした。少ない方が良かったのです。しかし今はそれだけでなく、福祉やその他のサービスとして、みんなに還元されるのです。政府への預け金でもあります(もちろん、事務費やムダな経費は、少ない方が良いです)。
とすると、貧しい人は、「大きな政府」を求める方が、もうかります。だって、その経費をたくさん負担するのは金持ちですから。この観点からは、小さい政府は、金持ちが得をする主張です。
納税者番号もそうです。反対される人が多いです。それぞれ、少しは「節税」をしておられるからでしょう。でも、小金持ちが節税したところで、しれてます。金持ちが脱税できる金と、庶民が節税する金とでは、ケタが違うのです。納税者番号を導入し、消費税にインボイスを導入すれば、庶民の税金は少なくてすむと思います。庶民の味方を称している政党が、もっと主張して欲しいです。
納税額に応じて、将来の年金給付額を増やす国があると聞きました。すると、税金の申告を大きくなる方に、訂正する人が出たそうです(うろ覚えで済みません)。(9月13日)
また、同紙「分裂にっぽん」は、「規制緩和、会社共同体崩れた」でした。ここ数年、正社員が減り、非正社員が増えました。景気の悪い時期だけでなく、良くなってもその傾向が続いています。会社とすると「低いコストでクビの切りやすい非正社員」が都合良いのでしょう。
年功序列・終身雇用という会社共同体が、崩れつつあります。もっとも、このような会社共同体は、必ずしも日本に古くあるものではなく、またそうでない職場も多かったのです。しかし、それが理想型とされていて、国民の多くも信じていました。ところで、「正規社員、非正規社員」という言葉に当たる英語はないとのことです。それだけ、会社共同体は日本に適合したのでしょう。
かつては、家族・親族(血縁)と農村共同体(地縁)が、個人の帰属先・共同体でした。助け合いという福祉機能、いろんなことを教えてくれ相談に乗ってくれる情報・教育機能、安心感を与えてくれる機能など。今風に言えば、セイフティネットでした。その後、工業社会になって、帰属先は家族と会社などの職場になりました(拙著「新地方自治入門」p211~)。経済構造の変化で、それが崩れつつありますが、まだ私たちは新しい共同体を作り切れていないのです。それが、不安を生んでいます。

行政の失敗と再発防止

プールの吸水口に小学生が吸い込まれ、死亡する事故がありました。痛ましい事故です。子供を持つ親としても、やりきれません。このような事故は、数年前にもありました。なのに、なぜ防げなかったのでしょうか。素人が考えても、事前に確認する、網戸のようなふたを二重にしておけば、防げたはずです。避けられない事故とは思えません。
先日から、NHK教育テレビ「知るを楽しむ」8~9月の月曜日番組、畑村洋太郎先生の「だから失敗は起こる」を読んでいました。放送は、7日からですが、テキストは既に発売されています。先生は「失敗学」の創始者です。読んでいて、なるほどと思うことが多いです。
私も、行政管理の分野では失敗学の「泰斗」である、正確には「失敗が起きたときのお詫びの王者」であると、自負しています。自分が起こした失敗の他に、管理職になってからのお詫びは数えきれません。鹿児島県税務課長時代の課税額間違い(もちろん過大課税でしかられました)、富山県総務部長時代の談合、カラ出張、調査ミスなどなど。この時は、1年間に4回お詫びの記者会見をしました。記録保持者と思います。こんなこと、自慢になりませんが。
大きく新聞やテレビで取り上げられ、頭を下げた写真と記事を大切に保管してあります。自分が下げているはげ頭を見るのは、楽しいことではありません。でも、だからこそ、いつも思い出しては、教訓にしています。それぞれの事案が、私を育ててくれました。幸いなことに、人身事故ではなかったので、こんなことを言えるのですが。
再発防止のために、処分・制度改正のほかに、記録として残したりしました(「富山県庁の挑戦-私の行政改革論」1998年、富山県職員研修所)。部下が起こした失敗は、受動的な責任です。でも、同じことを2度起こしたら、管理者である私の責任です。
先輩の成功事例よりも、失敗事例の方が、よい教材になります。そう思って、できる限り明らかにし、記録しました。役所の失敗は、パターンが限られています。職員が起こすことですから、そんなに珍しいことは起きません。大半は、「組織の病気」です。もたれ合い、無責任、引き継ぎの失敗などなど。本当に些細なことで起きます。
当時の教訓は、「隠すことは、もっともいけない」です。人間、できれば都合の悪いことは隠したいものです。でも、そんなことに限って、必ずばれます。天網恢々、疎にして漏らさず。また、上司がそんな気でいると、職員の間にも「隠しておこう」という意識が生まれます。それが一番怖いのです。
また、「二度とこのようなことがないように・・」と皆さんおっしゃいますが、私はそれではだめだと思います。もちろん人身事故などは、二度と起こしてはいけません。また、そのような心構えも必要です。が、小さなミスはしょっちゅう起こります。例えば、印刷ミスとかです。それらすべてについて、本当に二度と再発しないようにするには、すごい費用と労力が必要です。それは、費用対効果の面で、不可能です。職員が何人残業しても、足りません。「人間は失敗を犯すもの」なのです。再発防止策をとったあと、もし起こったらどうするか、その前提の下に、対策を考えるべきです。
機会があれば、後輩のために、「行政での失敗学」を書きたいと思っています。畑村先生には、このほかにも失敗学の本がいくつもあります。管理職の方は、ぜひお読みください。(8月2日)
これに関して、プロ野球・野村監督の言葉を思い出しました。「野球に、ふしぎな勝ちはあるけど、ふしぎな負けはない」という趣旨の言葉です。行政の失敗にも、ふしぎな失敗ってないのですよね。原因を調べると、必ず「なーんだ、こんなことか」というのがあります。

今日は、「田村交付税課長を囲む会」に行ってきました。平成4年、田村課長、岡本補佐と一緒に仕事をした、交付税課メンバーの集まりです。今から思うと、とんでもない過酷な職場でした。夜の12時頃に職員が「今日は早く帰らせてもらいます」と言ったとか(誇張ですが)。交付税の算定が終わって、夜に富士山に登って途中道に迷ったのも、この時です。
その原因は、ただでさえ忙しいのに、ふるさと創生、公共投資基本計画、シルバープランなど、次々と交付税措置が増えたのです。もっとも、それに輪を掛けたのは、国会議員からたくさん質問をもらってきたり、次々と仕事を引き受けた岡本補佐にあります。でも、田村課長の人徳で、毎回大勢の人が集まります。話題は、当時の課長補佐が、いかにむちゃくちゃだったかです(反省)。なぜか、この話で盛り上がるんですよね。
土曜の午後に指示を出し、月曜日の朝宿題ができていない職員に対し、「昨日休んだだろう」と詰問し、午後には、「まだか~、さっき昼飯を食っただろ」と聞き、火曜日には「昨日寝ただろう」と攻めた話は有名です。「忙しいから、返事は短く。ただし、全勝は民主的だから、決めつけはしない。次のどちらかを選んで良いから。一つはもちろん『はい』。もう一つの選択肢は『わかりました』だ」と、言ったこともありました。うーん、ひどい話ですねえ。
ある職員は、「はいはいはい、わかりましたよ~」と反抗していました。その彼も、今は某県の総務部長です。私のマスコット人形を夜のうちに壊しておいて、「どうして壊れたのですかね」ととぼけていた職員も、某県総務部長。いろんな指示に、「え~、本当ですかあ~」と、はぐらかしていた職員は、一人は総務省の室長、もう一人は課長補佐、もう一人は某市の財政部長です。きっと、私を反面教師にして、よい管理職になっているでしょう。
でも、一人も事故者を出すことなく、今もみんなで、楽しくあのころのことを話題にできます。小さな「プロジェクトX」だと思っています。

12日の日経新聞夕刊「人間発見」は、草刈隆郎日本郵船会長の若き日です。ロンドン駐在時代に、大きな失敗をされたそうです。「当時としてはかなりの大金で、『これでクビかな』と青ざめました。結局、罰則はなかったのですが、今も郵船の業務失敗の事例集に『カラジョージス事件』として載っています」。
先輩の成功談や武勇伝も良いのですが、失敗事例集はもっと後輩に役立ちますよね。役所には、失敗事例集を持っている所って、あるのでしょうか。普通は、失敗は隠すこととされ、記録に残らないのです。失敗を書いて残す組織は強いでしょう。私の個人的な失敗は、「明るい係長講座」に書きました。

2006.09.10

今日は、シリーズ『地方税財政の構造改革』(ぎょうせい)に載せる「三位一体改革の意義」と「今後の課題と展望」を書き終わりました。8月に書いた「地方財政の将来」(学陽書房)があるので、これを基に加筆しました。その後、汗だくになって、実家から届いた本を5箱整理し、充実した1日でした。

2006.09.09

一橋大学大学院の成績をつけて提出しました。27人のレポートを読んで評価するのは、結構大変なのです。最初に読んで理解し、評価ポイントをつける。これで2~3回は読みます。次に、その採点が相対評価・横並びがとれているか、チェック。ここまでは、8月中にしておきました。そして、今日、もう一度再確認して決定しました。
課題を示す際に、論文の書き方を指示してあります。
1 表題をつけること。ページをうつこと。
2 見出し、小見出しをつけ、目次をつけること。
3 最初に要約をつけること。
4 活字は12ポイント以上。
こうすることで私も読みやすいし、本人も何を言いたいのか、明確になります。
また、採点の基準も示してあります。
1 具体事例を対象とすること。
2 それを、岡本の主張に沿うか、批判して分析すること。
3 現在日本の行財政が対象なので、外国語文献や偉い先生の論文を引用する必要はない。
今回も、なかなか立派な論文がありました。一方で、良い評価をつけることは無理なレポートも、いくつかありました。何を言いたいのか不明。論拠があいまい、論旨が通らない。感想文に近い。事実はよく調べてあるが、分析と主張がない。分量が極端に少ない。相変わらず、誤字は多いですね。ワープロの変換間違いのほか、文章の複写貼り付けを間違って、同じ文章が2か所に出てくるというのもありました。提出する前には、もう一度読み返してください。

2006.09.07

2日の読売新聞では、青山彰久記者が「自治体の破たん法制。国と地方の関係、包括的な議論で」を書いておられました。
「自治・分権の原則が、自分たちのまちのことは自分たちで決めるという自律と自己統治にあるとすれば、破綻法制を検討することにも意味はある・・。しかし簡単ではない」
「そもそも、地方に自己責任を求めるなら、それに見合う形で、地方が今以上に仕事を自由に効率的に行う権限も広げなければならないという論理も成り立つ。法律や政令・省令で仕事の基準や方法まで定める現行制度を変え、税源移譲も拡大すべきだろう」
「破綻法制だけを独り歩きさせず、国民が納得できるように包括的に設計できるかが焦点といえる」
6日から日経新聞経済教室で、「地方財政、破綻処理を考える」が載っています。「破綻処理」とは、センセーショナルな見出しですね。
今の法制度では、自治体も国も「破産」はできません。破産は法人=法律が作った人を「殺す」制度ですから、作るときに法律が必要なのと同じく、殺すときも法律が必要なのです。そのような法律はないので、国も自治体も破産はできません。第3セクターの多くは株式会社ですから、破産できます。民事再生法の処理もできます。
破綻は、一般的な用語で定義されていないので、定義してからでないと議論が混乱します。日本国債が格付けを引き下げられ、アフリカの某国なみになったのは、まだつい最近のことでした。この時も、日本の財政は破綻していると言われました。その後も借金残高は増えて、「国家財政は破綻している」という人もいます。
夕張市が巨額の借金を抱えたのは事実です。しかしこれは、「粉飾」をしたのであって、一般化されては他の自治体が困ります。国として自治体が行わなければならない事務(教育・福祉・消防など)の財源は国が保障しています。自治体が借金する際も、これまでは国の許可が要りました。変なことをしない限り、破綻しようがなかったのです。また、粉飾しないように監視するために、議会があり、監査委員がいるのです。
国と地方が巨額の借金を抱え「破綻している」ことと、粉飾した夕張問題とは、別です。対処方法も別々です。地方団体の借金が多いので「破綻処理」を考える必要があるというのなら、国家財政の方がひどいのですがね。