前回書いた「夏服騒動」は、たくさんの反響がありました。その続きです。
(霞が関の社会学)
霞が関・永田町では、夏服騒動が続いています。「逮捕されるまで、俺はネクタイを外さないぞ」と言った官僚がいるとか(逮捕された人が、自殺防止にネクタイを外され連行される姿がテレビで映ります。そのことを指しています)、奥さんと久しぶりにシャツを選びに行ったとか、話題には事欠きません。「毎日、着ていく服を選ぶのが大変だ」という声が多いです。
ネクタイを締めていると、「どうしてネクタイをしているんですか」と聞かれる「アカ狩り=非同調者捜し」があります。外していればいるで、「あの服装はださいよね」といった「品評会」もあり、社会学の良い研究対象になっています。
(ネクタイ外せば、クールビズ?)
「上着脱ぎ、ネクタイ外せば、クールビズ」と思っていたら、そうではなさそうだ。ということがわかったのが、この10日間の学習効果でしょうか。ふだん着ているシャツは、ネクタイを外しただけでは、かっこよくないのです。
みんな、あらためて、ネクタイの効用を認識しています。その1は、ネクタイをしていると、視線が顔でなく、ネクタイに注がれること。そして、「ぼやけた顔への注目が低くなる」ことです。ところが、ネクタイを外すと、視線はすべて顔に行ってしまいます。その2は、太ったお腹が、そのまま見えてしまうこと、です。これが、昨日、野田聖子議員と議論した結論です(笑い)。
ネクタイは、実用の面ではほとんど機能がない布きれです。それが、これだけ長期間、また世界中の男たちに採用されてきたのは、単なる慣習でなく、それだけの機能があるのですね。
(服装の思想)
ノーネクタイ運動が日本の社会を変えるということを、前回書きました。「個性を殺して回りに同調すること、自分で考えずに指示を待つこと。この二つに慣れた男たちに、革命を迫っているのです」と。10日の朝日新聞「三者三論、クールビズ定着するか」での、成実弘至助教授の主張も参考になります。
「ネクタイを外しただけでは、かっこよくない」となると、これからはどのような服装を選ぶか、各人の「服装に関する考え方」=「服装の思想」が問われることになります。「人は外見で評価してはいけない」という警句があるのは、しばしば、「人は外見で評価される」からです(拙著「明るい係長講座」)。
「紺のスーツにネクタイ」は、サラリーマンの制服であり、これを着ている分には安心でした。「スーツとネクタイ」という制服がなくなって、各自が服装を考えなければならなくなりました。そして、その服装は、周囲の人から評価されます。大げさに言えば、その人の「生き方」としてです。
夏向きの素材、値段という制約、TPOの制約のなかで、どれだけかっこよくできるか。社会に調和しつつ、個性を出すこと。とんでもない服装は、社会からの逸脱になります。ホテルなどには、入れてもらえないでしょう。ダサイ服装は、センスが疑われます。「たかが服」と、バカにはできないのです。奥さんたちのセンスも問われます。