全会一致の政治

28日に、自民党総務会で、郵政民営化法案の修正案が、「多数決」で了承されました。29日の各紙が大きく伝えています。問題となっているのは、修正の中身より手続きです。
「総務会は、法案への賛否などを決める事実上の最高意志決定機関で、党則では多数決で決定することを明記している。しかし、過去に適用例はない」(読売新聞)、「これまでは、賛否両論があってまとまらない場合は、反対の総務が欠席や途中退席する形で慣例を守り、党所属の全国会議員の投票行動を縛る党議拘束の有効性を保ってきた」(日経新聞)とのことです。それを、政治学から解説しましょう。
1 民主主義は多数決
ある議員が話していました、「民主主義とは多数決である。これまで全会一致であった方がおかしい」。そうですね。議論を尽くして全員が納得するようにすることは必要ですが、議論しても一致しない場合は、最後は多数決で物事を決めます。それは、自民党内だけでなく、国会がそういう仕組みです。実際は、反対派が退席していたことも、立派な多数決ですよね。
2 全員一致ができたわけ
「これまでは派閥の領袖を説得すれば党内がまとまったが、派閥の結束力の低下で、多数決はやむなし」(読売新聞)との解説もありますが、それは副次的なものだと思います。
基本的には、「全員一致の政策しか実施しない」ことを、続けてきたからではないでしょうか。単純に言えば、右肩上がりの時代にその財源を配分すること、その他の困難な課題は先送りする、ということができたからでしょう。
痛みを伴う改革の場合は、反対派がいるでしょう。それを「全会一致」とすれば、改革は進みません。
総務会長が「今後の前例になるだろう」と、発言しておられます。そうでしょう。もっとも、党則には「出席者の過半数で決し」と書かれているので、原則に戻っただけとも言えます。
3 内閣と与党の関係
「自民、首相出番作らず」(毎日新聞)、「首相、中身より成立。改革イメージに陰りも」(産経新聞)という解説もありました。与党の党首が首相に選ばれる議院内閣制でありながら、日本の場合は「内閣と党の二重権力構造」になっています。これについては、「省庁改革の現場から」p198に書きました。今回も、それを考えさせる事例でした。
三位一体改革の場合は、「続・進む三位一体改革」p143に「与党との関係」で解説しました。また、首相の出番と改革イメージについては、同じくp159の注91、注93を見てください。(6月29日)
30日読売新聞吉田和真記者は、今回の法案の与党修正について、次のような指摘をしていました。
「内容の評価はともかく、立法過程のあり方として、修正合意は前向きにとらえることができる。政府が提出した法案について、国会審議を通じて問題点が指摘され、それを踏まえて政府・与党が協議、決着させたものといえるからだ」「従来、政府の法案は、与党の事前審査制の慣行により、政府・与党間で綿密に調整され、与党が了承した上で国会に提出されている。この時点で、与党は採決時の党議拘束もかける。したがって、提出後、与党は原案通りの成立を目指すことになり、国会審議の形骸化につながっている」

わたくし流

林望著「帰宅の時代」(新潮社、2005年)の表題が気になって、また、リンボウ先生の本は結構好きなんで、読みました。「会社人間だけではだめ」という私の主張(「新地方自治入門」p322、「明るい係長講座」)が、より過激に、リンボウ先生流に書かれています。「アフター5はクールに別れる」「家に帰ろう」「ファッションは何を着るかではない」「他人と違うことに誇りを持て」などなど、うなずくところが多いです。
「勤務時間外まで、仕事でつきあわず、自分の時間を持て」という主義を、私も実行しつつあるのですが、なかなか徹底するのは難しいです。でも、会社も役所も最後まで面倒を見てくれないことが見えた今では、時間外まで組織に忠誠を尽くすより、自分の時間を作ることは必要ですよね。
そのほか、「家庭は個人主義の学校」という主張は、眼を開かれました。家族だって、違った主張や個性を持った存在であり、それが同居していることの意義についてです。

日本の文化

烏賀陽弘道著「Jポップとは何か」(岩波新書、2005)が、面白かったです。Jポップ(演歌でもアイドルでもない、若者ポピュラーソングとも言うのでしょうか)は、私にはフルートの演奏対象にもならず、そもそも理解し難く、縁がないのですが、日本社会を勉強するために読みました。
宇多田ヒカル以外の歌手の英語歌詞は、英語としては成立せず、ネイティブが聴いて鑑賞には堪えないこと。宇多田ヒカルを含めて、海外ではまったく売れていないこと。日本人が日本人だけで、インターナショナルなような気になっていること。
ポピュラー音楽の輸出がほぼゼロ(売れているのはアニメソング)に対し、日本市場では輸入が圧倒的に多いこと。そして、日本製の音楽は、国内市場だけで成り立っていること。拙著で書いた「まれびと志向」や「情報の単一市場」p320が、極端な形で現れているのですね。
その他にも、日本のカラオケ参加人口は約5,000万人で、音楽鑑賞人口4,500万人より多い。CD生産額は最高6,000億円に対し、カラオケ料金は7,800億円。カラオケボックス利用者の6割が30歳以下に対し、酒場でのカラオケは7割が30歳以上。「カラオケは、自己表現の消費」など。日本社会を考えるいい教材です。

過去の分析と未来の創造と:官僚の限界

東京大学出版会のPR誌「UP」6月号に、原島博教授が「理系の人間から見ると、文系の先生は過去の分析が主で、過去から現在を見て、現在で止まっているように見える。未来のことはあまり語らない。一方、工学は、現在の部分は産業界がやっているで、工学部はいつも5年先、10年先の未来を考えていないと成り立たない」といった趣旨のことを話しておられます。
この文章を読んだときに、私は「これだ」と叫んでしまいました。社会科学系の学者さん(の多く)も、社会を分析をしておられるのに、なぜ現実に対し有用でないか。理由はこれだったんです。

官僚の多くにも、これが当てはまります。法律の解釈や、事象の解説は天下一品ですが、じゃあどうするのか、どう改革するのかになると、とたんに沈黙するのです。できあがった法律の解釈学に甘んじ、改革に対してはいろいろ理屈をこねては抵抗する。これでは、国民の支持は得られませんよね。「政治主導」「小泉改革」の「引き立て役」ですか。
「国庫補助金改革の中味」を官僚が決められず、地方団体に選んでもらう。そしてそれに対し、「地方団体の意見がまとまらないなら、改革は進めない」「お手並み拝見」などと、評論家みたいなことを言っている。これでは、官僚の存在理由はないです。

三位一体改革50

20日の毎日新聞は、連載「知事たちの闘い-地方分権は進んだか」15回「新潟会議」を載せていました。国から意見を求められ、補助金廃止案を打ち返した際の議論の検証です。
中央教育審議会で義務教育費国庫負担金一般財源化議論が続いています。私の主張は、何度も書いたとおりですが、記者さんの問い合わせが多いので、改めてかいつまんで、私の意見を述べましょう。もっとも、政治学的な観点からの意見です。
1 審議の場の設定間違い
①中教審は教育内容を議論する場
まず、中教審で「教員の給料の財源」を議論することが、間違いです。中教審は、教育の内容とか質を議論する場所でしょう。教育条件なども議論することは良いと思いますが、今回は教育条件を議論しているのではありません。教員の給料を減らそうとかを、議論していないのです。その財源を議論しているのですから。そして、総務省も地方団体も、一般財源化しても、ちゃんと財源を確保すると言っているのです。
義務教育に関しては、もっと議論しなければならない重要なテーマがあるでしょう。それは教員の給与の財源でなく、教育の質の低下であり、学級崩壊などです。重要なテーマを放っておいて、優先順位の低いことを議論していると、国民はあきれてしまい、審議会への信頼が落ちると思います。
②審議会は、官僚の隠れ蓑
次に、中教審は文科大臣の諮問機関です。大臣は「国庫負担金堅持」を言っておられます。大臣に選ばれた委員が、それに反する答を出すと思えません。会長も早い段階で、「負担金堅持」を言っておられました。
教科の内容など専門的なことについて、専門家の意見を聞くのは、まだ意味があります。しかし財源は、大臣が決めればいいことです。財務大臣と総務大臣と協議すればすむ話です。審議会は、責任の所在がはっきりしない「隠れ蓑」であり、政治主導の対極にあるものです。
この問題を中教審で議論することが、間違っています。政治的な議論の過程でこうなったのですが。まあ、あまりにひどい過程を見せると、国民が「審議会はだめだ」と勉強する機会になるとはおもいます。委員の方には、申し訳ありません。日本の政治を、官僚主導から政治主導へ転換する、教材です。
2 議論の内容の間違い
次に、一般財源化反対論者の議論は、「交付税にすると、将来総額が減るので心配だ」「一般財源化しても、自由度は高まらない」に集約されるようです。
①地方税と交付税より、国庫負担金の方が先細り
地方財政より国家財政の方が赤字幅は大きく、より心配なのは国家財政なんですよ。財務省も、文教費を削りたいと思っているのですから。
②一般財源化しても教育の質は落ちない
「一般財源化しても自由度が高まらない」という主張に対しては、「じゃあそれでも良いですよ」と答えましょう。自由度を高めるかどうかは、文科省が縛りをゆるめるかどうかにかかっています。縛りをゆるめたくない文科省が言うべきことじゃないですよね。
それよりは、「高校は国庫負担金なしでうまくやっている」という主張に対する、反論を聞きたいものです。
一般財源化しても、教育の質は落ちません。国庫負担金を配っている文部官僚は、数を減らすことができます。その人たちは、お金ではなくもっと教育の内容を考えることができるようになるのです。一方、地方団体の職員も、補助金申請作業がなくなり、減らすことができます。
(失業のおそれ)
20日に香山総務次官が「三位一体改革のために、何が何でも国庫負担金の一般財源化を実現したい」述べたことに対して、文科省の課長がコメントを発表した、との報道(21日付読売新聞、日経新聞)がありました。以下、記者さんとのやりとりです。
記:他省の意見が自分の考えと違うからといって、いちいちコメントを出すのですかね。
全:うーん、そんなことしていたら、経済財政諮問会議の原案や予算原案がでたら、各省は何百もコメントを出さなければならないね。各省の審議会も、他省庁の気にくわない意見も言うしね。忙しいぞ。
記:また、次官の意見に対し、課長がコメントを出すのですか・・。
全:聞いたことがないね。僕が、よその省の次官の記者会見についてコメントを出したら、記事にしてくれるかい?
記:考えときます(笑い)。まあ、国庫負担金を配ることが仕事の課ですから、一般財源化されると失業するからでしょうがね。(6月21日)
21日に、政府税制調査会が「所得税と個人住民税に関する報告書」を出しました。その中で、「三位一体改革による国から地方への本格的税源移譲を、2006年度に行う必要がある」と明記しました。着実に準備が進んでいます。
21日には、「骨太の方針2005」が閣議決定されました。三位一体改革については、特に目新しいことはありません。地方6団体は「全体として評価できる内容だ」と好意的です。
22日の読売新聞では、坂田真記者が「地方の自立ー課題突きつけた骨太の方針、住民が納得する具体案を」を解説していました。(6月23日)