ニュースで報道されているように、原発事故避難指示区域のうち、飯舘村(の大部分)、川俣町山木屋地区、浪江町(の一部)、富岡町(のかなりの部分)が、3月31日と4月1日に、避難指示が解除されました。避難指示の区域は、1,150平方キロから370平方キロに、対象区避難者数は8.1万人から2.4万人に、それぞれ約3割になりました。「原子力災害対策本部資料p2」
これで、帰還準備区域(緑)と居住制限区域(黄色)は、ほぼ解除されました。富岡町と浪江町は、解除されていない地区もあるのですが、町の中心部が解除されたので、街の機能を復興することができます。
残るのは帰還困難区域(赤)です。この区域は、線量が高く帰還の見通しは立ちません。双葉町と大熊町は、ほとんどがこの赤になっています。そこで、線量の低い町の中心部を復興拠点として、限られた区域ですが、そこから復興を進めることとしています。避難指示の解除は、ひとまずこれで一段落です。
帰還できるようになったとはいえ、一気に元のにぎわいが戻ることはありません。住民意向調査では、多くの人が戻らないと決めています。帰還する住民が少ないと、商店も成り立ちません。働き手の何割かは、避難先で新しい仕事についておられます。子供は、避難先の学校に通っています。
住む場所を決める要因は、「働く場所」「学校」などでしょう。年金生活者などは、自由に住所を選ぶことができますが、多くの生活者はそうはいきません。住みやすい環境を整えて、徐々に人が戻ることを待つことになります。
個人的な感想を述べるなら、6年前には、このように早く住民が帰還できるとは想像していませんでした。原発事故対処は私の所管でなく、原発事故の状況や避難指示などは、離れてみていました。目に見えない放射能、いつになったら住むことができるまで線量が下がるのか不明だったことなどの理由から、見通しが立たなかったのです。また、「帰還困難区域」(赤の区域)は、戻れないことを前提に、東京電力が土地建物などについては全額の賠償をして、故郷を失うことについての精神賠償をしました。この区域は、住民は戻れないとしたのです。
予想以上に放射線量が下がり、また放射性物質が風で飛んだり水に含まれることもありませんでした(土にくっつくのです。だから、真水は問題ありません。泥水は放射線物質が含まれることがあります)。土を剥がしたり草木を刈る除染作業も、試行錯誤の上で、効果を発揮しました。なにより、町長をはじめとする関係者たちの、「帰るのだ」という強い意思がありました。
避難指示解除は、帰ることができるという、出発点です。津波被災地で言えば、水が引いたと同じ状態です。これから、街のにぎわいを取り戻すために、息の長い取り組みが必要です。
また、避難先で定住された人のほかに、戻るために待っている人、迷っている人がおられます。その人たちの相談に乗ることが必要です。
4月1日の朝日新聞に長谷文記者が、福島県庁職員の家庭訪問の実態を書いています「復興へ、はじめの一歩」。一般の方には知られていない仕事です。報道してくださり、ありがとうございます。