東大出版会PR誌「UP」2009年4月号に、鈴木博之青山学院大教授が、連載「近代建築論講義4」として、「建築の骨格と循環器」を書いておられます(古くなって申し訳ありません。読んだ時に書くのを怠ったので)。
・・近代は機械の時代であるという認識は、20世紀の常識だった。機械が近代を切り開き、機械のアナロジーが組織論から美学にいたるまで、時代の精神として広く用いられた。初期の機械は可動部分が目に見える、蒸気機関のようなハードウエアむき出しの機械だった。
しかしながら、20世紀後半になって、機械が電子化されてくると、古典的な機械の概念は急速に色あせていった。電子化された機器は可動部分がほとんど目に見えず、作動しているかどうかは結果を見て判断するといった状況になった。電子化した機械はハードウエア部分より、ソフトウエアに重要性があるのだった。
・・機械のアナロジーによって組織や美学を語ることは、現代ではほとんど意味をなさない・・
先生はこのあと、建築について、機械のアナロジーを議論しておられます。しかしこの議論は、先生がおっしゃっているように、私たちが、広く社会やものごとを理解する際の「型」に当てはまります。
「時代の精神」として言うならば、ものごとは、機械と同じように、個人や市民が理解できることです。そして、努力すれば作ることができるもの、改良できるものでした。機械のアナロジーは、ものだけでなく、社会の仕組みにも適用されるのです。「社会は、市民が改良できるもの」というようにです。
しかし、電子化されると、個人では理解不能、努力しても作ったり改良したりできないものになります。たとえば、機械式の時計の内部を見れば、子どもも、その動きが理解できます。しかし、電子時計では、分解しても、動きは理解できません。それが、身近な機械だけでなく、対象が社会一般に広がることはないでしょうか。
ところで、機械式の腕時計なら、スケルトンで中が見えるものも売れます。歯車の動きが、面白いのです。でも、電子式じゃ売れませんよね。見ていて、面白くないでしょう。