「国家官僚」の養成に向けて、人事制度を改めよ
省庁にとらわれない、「スーパーゼロ種官僚」の創設を
「官僚」の二文字が意味するもの
一人の官僚として、現在の霞が関は、非常に残念な状況です。
日本社会が、ヨーロッパへのキャッチアップを果たし、豊かさを獲得して、新たな社会構造へ方向転換をしようとしています。なのに、最も変化の流れに乗り遅れているのが、官僚機構だと思います。
確かに今までは、中央行政府のもと、官主導で政策を引っ張ってきました。が、現在の転換は、一つは官から民へ、あるいは中央から地方へという流れてありながら、官僚機構とその機構を構成する官僚個々人が、乗り切れていないという状況です。
官僚一人一人については、決して能力が低いわけではありません。むしろ仕組みに問題があると言えるでしょう、ではその問題とは何か。端的に表現すれば、各省もしくは各局ごとの官僚は、各々の持ち場で頑張ってはいるのですが、局や省にとらわれず国家全体を見渡す官僚、すなわち「国家官僚」がいない、同時にその仕組みもない、ということです。この点に、現在の霞が関が陥っている機能不全、地盤沈下、そして国民の期待に応えきれていない原因があると思います。
本来であれば、日本で最も難関の一つである国家公務員試験を突破し、入省後は毎晩遅くまで残業重ねている官僚が集いながら、そのアウトカムにおいて国民の支持を必ずしも得ていない。どんなに個別セクションごとに頑張っていても、全体として国民の求める期待から乖離し、ズレが生じてしまっているのです。
今まで、官僚機構が機能を果たすことができた理由は、まず目標が明確だったこと、そして手法が簡単だったことにほかなりません。目標とは、欧米に追いつき、追い越すこと。手法とは、補助金その他の財源を投じてモノを作ること。すなわち、公共事業やナショナル・ミニマムの行政サービスを提供するといったことなどです。
それを実現するには、各セクションごとの官僚が、己の分野で目指す目標に対し頑張っていけばよいのであり、事実それを実現してきました。近代そして戦後のわが国の行政は、世界でも最も成功したといえるでしょう。明確な目標、潤沢な財源、そして実行にあたる有能な官僚がそろっていましたから。
それが目標を達成したときに、次なる目標に速やかに転換すべきだったのに、組織と人が未だに発展途上国当時の思考にとどまっている。だから現在の問題に対応できなくなっているのです。
確かに、官僚機構というものは、分節化された個別の目標に対処する組織ゆえに、全体的な目標と対応を求めることに、そもそも無理があるのかも知れません。しかしあえて指摘したいのは、「公務員」の三文字が意味する内容は、目標ごとに与えられた仕事を達成する一種の機械的側面があるかも知れませんが、これが「官僚」の二文字になると、それを超えて日本全体を考える役割が求められると思うのです。
そしてわれわれは公務員にして官僚です。むろん、目の前の仕事を粛々とこなすことも必要ですが、日本社会が必要とする変革を見出し、そのために改革を提唱することも、官僚に対する国民の期待です。
そうした創意と創造は、本来政治家の役目かも知れませんが、政治には、国全体の舵取りという、より大きな役目があります。われわれ官僚には、問題の発見と政治が示した方向を具体化するという、実務レベルでの仕事を要求されていると思います。
ですが、現状では日々公務員としての仕事はこなしつつも、官僚としての役割は果たしていると言い難い。これが冒頭の、官僚として非常に残念な状況の背景です。
三つの原因
その原因を分析すると、以下の三点に集約されると思われます。
①大学教育におけるフィールドワークの欠落
国民にとって新しい幸福を追求するための新しい政策を創出する教育を受けていないこと。官僚のほとんどは法学部か経済学部の出身ですが、法学部はできた法律の解釈学に没頭し、経済学部も既存の経済理論を反復するばかりで、何かを造る、生み出すという訓練がなされていません。また、そもそもそのような学部、教育システムがありません。
例えば福祉分野はまさに国全体の大きなテーマですが、実際には地域地域で問題が発生するため、草の根的な視点が求められるわけです。しかし、そうした視点で問題を解決し、対策を講じるというフィールドワークの訓練を受けた経験などありませんから、いざ官僚になっても何をどうしていいかわからない。
何しろ大学時代に習ったことといえば、英語、フランス語、ドイツ語などのヨコ文字をタテ文字に直すことだったのですから。まず官僚になる前の教育段階で、国民の不満を吸い上げ政策に反映させるための理論と実践をまったく学んでいないのです。これが一つ。
「その2」に続く。