カテゴリーアーカイブ:行政

前衛の思想、後衛の思想

2020年7月26日   岡本全勝

7月20日の日経新聞地域面に、「交通崩壊 支え合いで防げ」が載っていました。
・・・「交通崩壊」。新型コロナウイルスの感染拡大で、地域の公共交通が危機に直面している。利用客減少や乗務員不足で収益が悪化しているところにコロナが直撃し、事業者の倒産や休業が続出。6月の移動制限解除後も、乗客数の本格回復は見込めず、苦しい経営が続く。地域の足は一度なくなると戻らない。運行維持へ官民を挙げたサバイバル作戦が始まっている・・・

この記事はコロナウィルスによるバスの経営危機ですが、これに限らず、地方の公共交通は厳しい経営状況にあります。経済原則では、儲からない企業は撤退するのですが、公共交通がなくなると生活できません。自家用車に乗らない学生や高齢者にとっては、学校、病院、お店に行けなくなります。自治体が経済支援をしていますが、公共交通は重要なインフラです。学校や上下水道と同じです。

一方で、新しい道路が巨額の費用を使って造られています。いくら新しい道路ができても、バスがなくなれば、利用者には意味がありません。予算の配分を見直すことはできないのでしょうか。新しい道路ができることはうれしいですが、交通という広い視点で見ると、利用が重要です。造れば喜ばれるという時代は終わっています。あるいは、不都合な事実に目を背けて、部分的にしかものを見ていません。もし国庫補助金がなく、一定額を市長に渡したら、市長は道路建設とバス路線維持にどのように予算を配分するでしょうか。
この項続く

砂原庸介教授「国の政治主導、地方の政治主導」

2020年7月23日   岡本全勝

月刊『中央公論』2020年8月号は、特集「コロナで見えた知事の虚と実」です。砂原庸介・神戸大学教授が、2人の知事に取材をし、取材後記として「国の政治主導、地方の政治主導」を書いておられます。詳しくは原文を読んでいただくとして。

・・・全国知事会での対策を主導した二人の知事から異口同音に語られたのは、今回の新型コロナウイルス感染症対策の中で、国が地方からの要求に対して非常に応答性が高かったということである。これまで災害のような緊急時において、しばしば国は地方から、反応が遅いとか不十分であるとか、どちらかといえばネガティブな評価をされるのが通例だった。それに対して今回は、知事から西村康稔新型コロナ対策担当大臣、加藤勝信厚生労働大臣という二人の担当大臣へと行われた要請が、迅速に、時には知事たちの期待上回るかたちで実現したことについて、知事たちも積極的な評価をしているように思われる。

このような変化は、第二次安倍政権において時には批判的に論評される「政治主導」のひとつのあらわれともいえる。従来見慣れた風景は、知事が地方官僚を引き連れて中央省庁に陳情し、「縦割り」省庁間の調整で当初の要請とはかけ離れた決定が行われるというものだった。しかし感染の懸念も後押しするかたちで知事たちは政治に対して直接要求を届け、それを受け取った大臣は何らかの反応を求められることになる。各省間の調整よりも、内閣官房を中心としたトップダウンの調整が行われるようになったことが、応答性の向上をもたらした側面があると考えられる・・・

なお、砂原教授による同号の巻頭言「情報が歴史になるには」も、鋭い指摘です。合わせてお読みください。

会津若松市、情報技術への取り組み

2020年7月22日   岡本全勝

会津若松市の情報技術への取り組みが、注目されています。

NHKウエッブニュースビジネス特集7月8日「東京から200キロ 大手企業が続々集まるワケ
・・・「10年先に起きると予測されていたことが新型コロナの影響で一気に来た」
今月、福島県会津若松市に拠点を設けたセイコーエプソンの執行役員のことばです。三菱商事、ソフトバンク、コカ・コーラ ボトラーズジャパンなど、この1年余りでさまざまな業種の大手企業が会津若松に続々と進出。東京から約200キロ離れた会津若松の魅力はどこにあるのでしょうか・・・

7月20日の日経新聞オピニオン欄、原田 亮介・論説主幹 の「会津発の都市OS広がれ 急がれるデジタル行政」でも、会津若松市の取り組みが紹介されています。

多くの情報技術先端企業が、会津若松市に集まっています。集まることで、次のサービスが生まれるようです。なぜ、地方の12万人の都市で、進んだのか。それぞれの記事をお読みください。

国民の信頼がない日本政府

2020年7月17日   岡本全勝

7月14日の朝日新聞、吉川洋・立正大学学長の「ポストコロナの負担、どう向き合う 財政は「支え合い」、議論深めて」から。
・・・財政赤字はバケツの底が抜けたような形で膨らんでいます。コロナ禍が一服したら、ポストコロナの負担のあり方を抜本的に議論しないといけない。これこそが政治の責任です。
財政というのは本質的に「支え合い」ということを認識する必要があります。みんなで負担してそれに見合ったものをもらうというのが財政の考え方です。

例えば市場原理主義と呼ばれる考え方があります。アメリカの共和党支持者に多いのですが、政府に色々やってもらう必要はない。その代わり、税金は低くしてもらうという考えです。社会保障や公教育すらミニマムでいいと考えます。
しかし日本で年金、医療保険を、全部私的な保険でやればいいと真面目に言う人はほとんどいないでしょう。また、すべての子どもに等しく教育を提供するのが、あるべき社会です。そういう支え合いを保つのが財政の役割なのです・・・

・・・コロナ前から、財政には問題がありました。最大の課題は少子高齢化です。子育て支援や、高齢者が増えることで医療介護の支出が増えることが想定されています。これに加えて、今回のコロナで感染症対応も一つの課題だと思い知らされました。負担の議論は避けられないのです。
北欧のスウェーデンはご存じの通り、社会保険料も税金もものすごく高い。だけど彼らは、国家のサービスを買っているという感覚があります。自分たちで買い物するときに不平を言う人はいない。

日本はそこの信頼感がない。変な例えかもしれないけれど、日本は政府のサービスが福袋に入ってしまい、何が出てくるのか、どれだけ自分が受益をしているのかわかりづらい。
例えば、社会保障によって、国民がどれだけの利益を得ているのかを端的に表しているのが寿命です。1950年代まで先進国の中で日本は寿命が短い国でした。それが1961年に医療が国民皆保険になってから寿命が大幅に延びました。こういった説明を政府はもっとするべきです。
コロナ禍によって、身の回りでの支え合いの意識が高まっています。「財政も支え合いだ」という意識が高まり、負担の議論が深まることを期待しています・・・

安全確保と私権制限の丸投げ

2020年7月3日   岡本全勝

6月27日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思さんの「死生観への郷愁」。本論と外れたところですが、コロナウイルス緊急事態時の人権制約についての主張を紹介します。

・・・17世紀イギリスの哲学者トマス・ホッブズが、その国家論において、国家とは何よりもまず人々の生命の安全を確保するものだ、と定義して以来、近代国家の第一の役割は、国民の生命の安全保障となった。われわれは自らの生と死を、自らの意志で国家に委ねたことになる。こうしてホッブズは世俗世界から宗教を追放した。超自然的な存在によるこころの安寧やたましいの安らぎなどというものは無用の長物となった。
かくて、コロナのような感染症のパンデミックにおいては、国家が前面に登場することになる。われわれ自身でさえも、おのれの生死に対する責任の主体ではなくなるのだ。国民の全体が、たとえ0・02%の確率であれ、生命の危険にさらされている場合には、その生死に責任をもつのは政府なのである。それが「国民」との契約であった。ドイツの法学者カール・シュミットのいう例外状態、つまり国民の生命が危険にさらされる事態にあっては、私権を制限し、民主的意思決定を停止できるような強力な権力を、一時的に、政府が持ちうるのである。これが、ホッブズから始まる近代国家の論理である。
そして、いささか興味深いことに、今回、世論もメディアも、政府に対して、はやく「緊急事態宣言」を出すよう要求していたのである。ついでにいえば、普段あれほど「人権」や「私権」を唱える野党さえも、国家権力の発動を訴えていたのである。強権発動をためらっていたのは自民党と政府の方であった。

これを指して、日本の世論もメディアも野党も、なかなかしっかりと近代国家の論理を理解している、などというべきであろうか。私にはそうは思えない。今回の緊急事態宣言は、もちろん一時的なものであり、しかも私権の法的制限を含まない「自粛要請」であった。しかし、真に深刻な緊急事態(自然災害、感染症、戦争など)の可能性はないわけではない。その時に、憲法との整合性を一体どうつけるのか、憲法を超える主権の発動を必要とするような緊急事態(例外状況)を憲法にどのように書き込むのか、といったそれこそ緊急を要するテーマに、野党もまたほとんどのメディアもいっさい触れようとはしないからである。

そうだとすれば、政府はもっと強力な権力を発揮してくれ、という世論の要求も、近代国家の論理によるというよりも、ほとんど生命の危険にさらされた経験のない戦後の平和的風潮の中で生じた一種のパニック精神のなすところだったと見当をつけたくなる。いざという時には国が何とかしてくれる、というわけである。国家はわれわれの命を守る義務があり、われわれは国家に命を守ってもらう権利がある、といっているように私は思える。ここには自分の生命はまず自分で守るという自立の基本さえもない。もしこれが国家と国民の間の契約だとすれば、国民は国家に対して何をなすべきなのかが同時に問われるべきであろう・・・