カテゴリーアーカイブ:行政

避難所で抜け落ちる、外国人の視点

2026年6月18日   岡本全勝

6月13日の朝日新聞「避難所で抜け落ちる、外国人の視点 山林火災があった岩手県大槌町」から。田村太郎さんのホームページ。

・・・大規模山林火災が5月29日に鎮火した岩手県大槌町では、多くの外国人技能実習生が働く。避難所では、生活習慣の違いから来る戸惑いもみられた。外国人に限らず、避難生活でのニーズは多様だ。どう備えていけばよいのか。

「お弁当ありますよ」
山林火災で煙に包まれた大槌町の避難所で4月下旬、女性たちが弁当を手渡され、貼られた成分表を見つめていた。
女性たちはインドネシアから来て町内の水産加工会社で働く、約20人の技能実習生だ。寮の裏山まで火が来た。避難指示を受け、最大約200人が身を寄せた城山公園体育館に来た。
実習生のうちの一人の女性(23)は弁当の配布に感謝しつつ、「ムスリム(イスラム教徒)だから豚肉も豚肉の脂も、お酒にあたるからみりんも食べる習慣がない」と話した。県災害派遣福祉チーム(DWAT)リーダーの小泉進さん(42)は「要配慮者は日本人高齢者を中心に考えており、ハラール(宗教的に認められた)食の視点がなかった。認識不足だった」と振り返る・・・

生活習慣の違いによる戸惑いは、食事にとどまらない。今回の山林火災で避難したインドネシア人女性は避難所にいた数日間、シャワーが利用できずに困ったという。
町内では火災後、避難者向けに銭湯やホテルの大浴場が開放された。だが、ムスリムには肌の露出を控える文化がある。女性は「他の人とお風呂に入るのは……」と抵抗感があったという。

1995年の阪神・淡路大震災以来、外国人の災害支援に関わってきた「ダイバーシティ研究所」の田村太郎代表理事は「ふだんから生活習慣の違いを理解するための接点が少ない」ために同様の問題が繰り返されてきたとみる。「『外国人』というくくりも雑で、出身地域や宗教によって習慣は多様な上、ジェンダーや子ども、持病など色んな属性がある」とも指摘する。

復興庁の復興推進参与でもある田村さんは「シャワーブースも備えとして標準化してもらいたい」と話す。食べ物については今、ハラール対応の非常食も市販されている。アレルギー対応食も同様だ。「『これしかないから、皆で我慢して頑張る』という日本の避難生活のスタンダードを、そろそろ改めませんか。選択肢の多い避難生活は誰にとっても過ごしやすいはずです」・・・

駅前駐輪場

2026年6月16日   岡本全勝

地下鉄丸ノ内線新高円寺駅の真上に、有料駐輪場がありました。青梅街道沿い、駅の出口から20メートルほどです。ビルが取り壊されたあと、空き地を駐輪場として営業していたのです。108台を駐めることができました。毎日ほぼ満車でした。
ところが先日、営業終了の張り紙がでました。利用者は困るでしょうね。近くに杉並区が作った地下駐輪場もあるのですが、こちらの方が便利なのです。
このような土地を区役所が買い取って、区営の駐輪場にできなかったのでしょうか。

鉄道の駅は、駅前広場やバス停、タクシー乗り場があって、駅前という感じがします。ところが多くの地下鉄の駅は、道路沿いに出口があるだけで、駅前と呼ぶような風景や機能になっていません。雨の日には、傘を広げるのも大変です。「ランドマーク」になっていないのです。
街づくりの一つとして、駅前を整備する発想はないのでしょうか。地下鉄会社にそのような思想がないならば、自治体が乗り出すべきだと思います。

コメ輸出より減反、半世紀3

2026年6月16日   岡本全勝

「コメ輸出より減反、半世紀2」の続きです。5月19日には「増産タブー視、消えたコンテスト」が載っていました。

・・・八ケ岳のふもとに広がる長野県富士見町の傾斜地の田んぼに、「米作日本一 生産の地」と刻まれた石碑がたたずむ。10アールあたりの収穫量(単収)を競う全国コンテストを1961、62年と制した、小池政之さん夫妻の功績をたたえたものだ。その収穫量は、975キロ(61年)と863キロ(62年)。一方、2025年産の収穫量の全国平均は、農林水産省によると573キロ。農水省のコメ研究の担当者は、「コンテストの優勝者ほどの収穫量がある農家は、いまはまずいない」と話す。

このコンテストは、終戦直後の食糧難の解決が緊急課題だった1949年に始まった。毎年およそ2万人が参加する激戦を勝ち抜こうと、農家はいち早く多収品種を導入し、日本一に輝く品種は、毎年のように入れ替わった。小池さんが61年に採用した「ふ系55号」も、前年に配布が始まった最新品種だった。
小池さんの棚田は、標高約1100メートルの寒冷地で、土壌は火山灰。コメ作りに不向きとみられていた。小池さんの技術を学ぼうと、全国から10万人を超える人が視察に訪れたとされる。だが、いまは「近くの小学校の子どもたちがキャベツを見に来るぐらい」と、次女美幸さん(80)は話す。

コンテストは68年で打ち切られた。そのころ、コメ政策は転換点を迎えていた。増産が進む一方、食生活の洋風化で需要は伸び悩み、政府は山積みになる余剰米の処理に苦悶していた。翌69年には、生産量を抑えるための減反に踏み切った。
このコンテストの主催者だった朝日新聞は「米作日本一20年史」で打ち切りの理由をこう記している。「『米の増産』に関連することはタブーとみられるにいたった」

減反で消えたのは、コンテストだけではない。
品種開発では、多収の研究が止まり、食味や冷害への対応力の向上が中心になった。限られた生産量でいかに収入を増やすかに注力し、高く売れるブランド米ばかりをつくるようになった。
それが半世紀にわたって続いた結果、かつて世界トップレベルを誇った日本のコメの単収の地位が大きく低下した。国連食糧農業機関(FAO)の統計によると、日本の1968年の単収は世界4位だったが、2024年は14位に落ち込んだ。米中などに抜かれた。

日本が減反を始めたころ、世界では単収を引き上げるために肥料を多く与えても稲穂が倒れないよう、背丈が低い品種の開発や普及が加速した。日本で進んだのは、この逆だった。1979年以降、作付面積トップのコシヒカリは、背丈が高く、単収は少ない。コシヒカリは、56年に命名された古い品種だ。
コメ政策に詳しい荒幡克己・日本国際学園大教授(農業経済学)によると、海外の主流品種は、古くても10年ぐらい前のものだという。「半世紀以上前に開発された品種がいまだにトップになっている日本の構図は、世界では異例だ」と話す・・・

コメ輸出より減反、半世紀2

2026年6月15日   岡本全勝

「コメ輸出より減反、半世紀」の続きです。2面には続きが載っています。

・・・輸出が補助金頼みになるのは、日本の米価が国際水準からかけ離れて高いからだ。農水省によると、25年産の国産米の業者間取引価格(1キロあたり)は627円。タイ産はその10分の1の63円、米国産は4分の1以下の142円だ。
政府は昨年4月、「食料・農業・農村基本計画」を閣議決定し、24年は4・6万トンだった輸出量を、30年に35・3万トンに増やす野心的な目標を掲げた。だが、25年はほぼ横ばいの4・8万トンだった。
「今の米価では高すぎて売ることは難しい。米価が大きく下がれば輸出は伸びるだろうが、生産者団体としてそれは受け入れられない」。JA全農の高桑健太郎・米穀部原材料課長はそう話す。

日本は60年代後半に、コメ余りの時代に突入した。そのころには、人件費が上昇するなどして国際競争力を失っていた。経済原理に従えば、コメが余れば米価は下落し、国際競争力は回復していくはずだった。だが、実際にはそうはならなかった。農水省は関税などで国内市場を海外と隔離したうえで、予測する需要量にあわせて生産量を抑制する減反政策を続け、米価の高値誘導を続けたからだ。
高い米価は、疲弊する地方経済を下支えし、農家を主な支持基盤とする自民党が安定政権を築くことを可能にした。
その一方で、消費者は、税金や社会保険料の負担が増すなかでも、高いコメを購入し続けることを強いられた。高い米価のもとで生産性が低い零細農家が残り、農家の技術革新も停滞した。この結果、世界有数だったコメの面積あたりの収穫量は、いまではトップ集団から脱落し、かつて日本が大きくリードした中国にも抜かれた・・・

・・・コメ農家(個人経営)の25年の平均年齢は71・1歳。農家数は、5年前から25%減った。団塊世代の引退で、担い手減が一段と加速することが確実視されている。
離農者が手放した土地を、別の担い手にスムーズに移行できれば、コメの自給は続けられる。大規模化による生産性の上昇で、消費者は安くコメを食べられるようになるかもしれない。ただ、移行が進むとは限らない。
千葉県北部の沼南ファームは、130ヘクタールの農地を耕す全国有数の大規模農家だ。橋本英介社長(52)が就農した25年ほど前は60ヘクタールほどだったが、離農者の土地を引き受けてきた。だが、「これからは、引き受ける農地の仕分けに入る」という。
離農で土地を引き受けても、点在していたり、斜面にあったりする農地は、最新の農機具で効率的に耕すことができず、手が回らないからだ。

終戦直後の農地改革で475万戸もの零細な農家が生まれた。小作農を貧困から解放した一方で、農地の細分化で、生産性が低くなる副作用をもたらした。大規模化しても、農地が点在しがちなのはこのためだ。
新しい担い手への農地の移行を進めていくためには、農地の権利を整理し、まとまった農地にしていくことが欠かせない。だが、農水省は「憲法が保障する財産権の制約があり、実行は難しい」(幹部)として、有効な対応策を打ち出せずにいる・・・

コメ輸出より減反、半世紀

2026年6月14日   岡本全勝

5月18日の朝日新聞1面「減反は何をもたらしたのか:1」「コメ輸出より減反、半世紀」から。

・・・過去半世紀のコメ政策には一つの謎がある。なぜ、政府はコメ余りを防ぐために減反の道を選び、最近まで海外への輸出に活路を見いだそうとしなかったのかだ。歴史文書をひもとくと、二つのキーワードが見えてくる。「コストの壁」と「米国の圧力」だ。

「対外的に余剰米処理を匂わせることを極力避けることが肝要である」。外務省が公開している1969年12月作成の内部文書にはこう記されている。文書には下線が引かれ手書きの文字が書かれている。「匂わざるをえない」
「余剰米処理」とみられることをなぜ警戒したのか。当時、戦後の食糧難は一変し、政府は余剰米の処理に頭を悩ませていた。69年には、主食用米の生産を制限する「減反政策」に試験的に踏み出していた。
コメの輸出を増やすことも選択肢にあがった。ただ、日本産はすでに国際競争力を失い、海外産より高かった。海外を援助するという名目で、税金を投入して国内価格との差額を補填し、格安で輸出する形をとらざるをえなかった。

外務省が神経質になったのには訳がある。米国からの苦情申し立てだ。
文書が作成される5カ月前の7月。日米の閣僚級の会合で、ハーディン米農務長官(当時)が日本側にこう釘を刺した。「(3月に合意した韓国との取引で)米国の商業ベースの貿易は数百万ドルも損失を蒙る」。国連食糧農業機関(FAO)は、余剰農産物を援助で処理する場合、他の輸出国の利益を不当に害さないよう求めていた。
その後、日米貿易摩擦が過熱する。米国は日本をコメの有望な輸出先と見込み、市場開放を強烈に迫るようになる。高木勇樹・元農林水産事務次官によると、「市場開放要求に防戦するなかで、援助拡大は自粛せざるをえなくなった」という・・・