カテゴリー別アーカイブ: 復興10年

復興工事完了後の課題

2月24日の日経新聞に、陸前高田市の発災以来10年の変化が写真で載っていました。ウエッブサイトでは、動画で見ることができます。「移ろう景色、見つめた被災地の10年」。改めて、大工事だったことがわかります。

同日の日経新聞「インフラ一段落、次は心のケア 震災10年で2知事に聞く」。
村井嘉浩・宮城県知事「風化覚悟、自立の気概を」から。
・・・この10年間は被災者の生活再建を優先しようと思っていた。高台に宅地を造り、防潮堤や道路も整備してきた。10年でだいたいイメージした形にできたと思う。
課題としては心のケアや不登校の問題など、ソフト面がまだまだ追いついていない。阪神大震災の例を見ると、25年くらいかかってだいぶ落ち着いてきたので、もう少し息の長いスパンで対策を考える必要がある。
10年たつと相当風化が進む。阪神大震災、新潟県内の地震、熊本地震と大きな災害があったが、その地域だけを思い続けることは難しい。だから風化が進むことは覚悟しないといけない。言い換えれば、自分の力で立ち上がる自助・自立の気概を持たなければダメだ・・・

達増拓也・岩手県知事「コミュニティー作り課題」から。
・・・県内で1万3984戸用意した仮設住宅から、入居者が恒久住宅に移れた。中心市街地に大きな商業施設ができるなど、街も再建できた。暮らしにせよ仕事にせよ、震災前よりも大きな希望を持てるようになった。
一方でコミュニティーの形成支援や心のケアに加え、震災以降に起きた漁獲量の大幅減少、新型コロナウイルスの感染拡大などによる事業者の売り上げ減少といった課題がある。11年目を迎える復興の新しいステージの中で対応していく必要がある・・・

災害遺児の支援

2月17日の日経新聞「私見卓見」は、あしなが育英会職員八木俊介さんの「災害遺児のケア、社会全体で」でした。
・・・2011年の東日本大震災で親を失った遺児は2千人を超える。「お母さんは元気にしていますか。夢でいいからお母さんに会いたいです」「お父さんがいたらいまの自分はどうなっているのだろう」。震災10年を前につづった作文からも、子どもの心の傷が完全に癒えていないことがわかる・・・

あしなが育英会は、交通事故遺児の支援で有名ですが、震災孤児・遺児の支援もしてくださっています。
このホームページでも、紹介してきました。「レインボーハウス、震災遺児孤児の心のケア

復興政策、終わってからの教訓

復興事業の教訓」(4回)「日経新聞、大震災復興事業の検証」(3回)「復興事業の教訓、集落の集約」などに、成果と教訓について書いてきましたが、講演会での質問や記者からの質問を踏まえて、総括的なことを考えました。走りながら考えていたときは見えなかったことで、終わってから振り返ると見えてきたことです。ここでは、二つ書いておきます。

一つは、「走りながら考えた」ことについてです。
今回、避難所や仮設住宅での生活環境改善から始まり、国土の復旧から暮らしの再建に支援を広げました。しかしこれは、初めから考えていたことではありません。現場を見て「逃げることができず」、一つずつ支援策を作っていきました。それを整理し、政策の柱として、産業再開支援とコミュニティ再建支援と位置づけたのです。「復興がつくった新しい行政
このうち避難所での生活環境改善などは、既にその後の災害で標準になりました。しかし、大きく壊れた町の復旧については、次回の大災害の際に今回の経験がどのように活かされるかです。今回作り上げた思想と仕組みを前提として、それをどのように適応するか、改善するかです。

もう一つは、「人口減少下での復旧」についてです。
これについては当初から、復興構想会議でも議論され、マスコミも指摘していました。私も理解していたのですが、それが現場の各事業に反映されたかといういと、十分ではなかったと思います。
復興事業の教訓、過大な防潮堤批判」で触れたように、災害復旧事業は安全確保のために、壊れた施設を直ちに元に戻すという思想でできています。地域の人口減少を計算に入れる制度にはなっていません。今回が初めての、人口減少下での大災害でした。
上位概念に「人口減少下での復旧」という考えがあるのですが、現場での「各復旧事業」とをつなぐ、中間の仕組み(歯車のようなもの)がなかったのです。これをつくらないと、今後も「元に戻す復旧事業」が続くことになります。

その延長で、もう一つ述べておきます。「町を集約する」ということについてです。「復興事業の教訓、集落の集約」の続きにもなります。
多くの方々が、「南海トラフ地震など次の大災害では、町の縮小が必要になる。そのための事前復興計画を作っておくべきだ」とおっしゃいます。まことにその通りです。
しかし、実際はどうでしょうか。市町村長や県知事、議員たちが、そのような計画を事前に作ることができるでしょうか。かなり難しいでしょう。誰もが、大災害とその後の町の縮小を考えたくありません。
すると、私たちにできることは、東日本大震災からの復興において、よかった例とそうでなかった例を整理しておき、大災害が起きた際に、自治体と住民にその例の中から適切なものを選んでもらうことだと思います。

復興事業の教訓、集落の集約

日経新聞、大震災復興事業の検証。町の復興」の続きです。

今後の大災害の際に町の復旧に際して検討すべき課題は、ある街並み(集落)をどの規模で復旧するのかということのほかに、いくつもある集落をそのまま復旧するかということがあります。前回紹介した玉浦西地区は、集約した成功例です。
移転には、困難な判断が伴います。それぞれに思い入れのある土地で、田畑やお墓もあります。また、働く場をどうするかも課題です。その点で「もう少し工夫できたのではないか」という場所があります。三陸沿岸の漁業集落です。

入り組んだリアス式海岸の入り江ごとに、漁港と集落があり、その先に漁場があります。今回は、その集落ごとに、それぞれ近くの高台に移転しました。漁港と漁場がある以上そこを離れられないと、私も考えました。
ところが、それぞれの集落は小さく、学校や商店、病院がありません。車で町の中心まで行くのです。そのような集落が維持できるかどうかは、後継者がいるかどうかによりますが、10年後20年後に続いているか心配です。
発想を転換すれば、漁港と漁場はそのままにして、住宅は町の中心に移転する方法があったと思います。漁師さんには、町の中心の自宅から漁港に通ってもらうのです。道路が整備されたので、1時間もかからずに漁港に行けるでしょう。

漁業でなく勤め人の集落なら、さらに移転は容易だと思います。子育て中の家族にも、買い物をするにも、病院に行くにも、その方が便利です。田畑が元の集落近くにある方にも、車による「通勤」ができると思います。この項続く

日経新聞、大震災復興事業の検証。町の復興

日経新聞の大震災復興事業の検証、2月10日の第3回は町の復旧でした。「東北被災地、かさ上げ造成の3割空き地 旧時代の復興が壁

「町の復興計画が大きすぎて、空き地があるではないか」という批判については、「復興事業の教訓、過大な街づくり批判」に、随時計画の見直しをしたけれど、それでも空き地が出ている理由を説明しました。
その背景にあるのは、人口減少下での復旧のあり方です。「復興事業の教訓、過大な防潮堤批判」に、「町が縮小するときに、各種施設を元の大きさで復旧するのが良いか、が問われると思います。それは、防潮堤に限らず、道路、学校、農地などにも当てはまると思います」と書きました。

広がっていた町(集落)を集めて再建した事例として、次の2つが参考になります。
宮城県女川町は、町の中心部をかさ上げして、商店や学校などを集約しました。
宮城県岩沼市玉浦西地区は、沿岸部にあった6つの集落を内陸の一か所に集めて移転しました(資料の5枚目を見てください)。既にある集落の隣につくったので、学校や商店もありました。この項続く

ところで、災害公営住宅3万戸、宅地造成1.8万戸がしばしば取り上げられますが、このほかに15万戸が支援金を受けて自力で再建しています。