カテゴリーアーカイブ:社会の見方

社会とは何か、社会学とは何か

2011年6月5日   岡本全勝

突然気が向いて、盛山和夫『社会学とは何か―意味世界への探求』(2011年、ミネルヴァ書房)を読みました。制度や秩序とは何か、社会科学での客観性とは何か。長年悩んでいました。その回答が書かれているのではないかと思ったのです。この本はわかりやすく、かなり答をもらいました。
先生はあとがきに、次のような趣旨のことを書いておられます。
大学の卒業論文で「階級とは何か」に取り組んだが、挫折に終わった。「階級概念をどう定義すべきか」という問いが解けなかっただけでなく、解ける見通しさえ立たなかった。
・・今では、この挫折の理由は明らかである。なんといっても最大の理由は、「階級概念をどう定義すべきか」という問いは、「階級」が客観的に実在しているという前提のもとではじめて意味をもつ問いであるのに対して、実際のところ、「階級」はけっして通常の意味で客観的な実在ではないということである。今ふうにいえば、「階級」とは構築されたものなのだ・・
そして、「社会制度とは、経験的な実在ではなくて理念的な実在である」という考えにいたった。

社会学の対象となるもの(社会)は、各人の主観的な意味世界の了解から成り立っていること。そして、社会学における客観性についての考え方が、著名な学者の歴史をたどることで、わかりやすく説明されていました。社会学が問題を立てる段階で、単に「経験的」でなく「規範的」であることも。

もっとも欲を言えば、では次に社会と社会学はどの方向に、あるいはどのような方法で進めばよいかは、書かれていません。はしがきには、次のようなことも書かれています。
・・19世紀の半ばに創設され、20世紀の初めに確立した社会学は、その時代の先進産業社会の課題を引き受ける形で発展してきた。近代化や産業化、あるいは階級や社会変動が社会学の大きなテーマであったのはそのためである。
しかし、1970年代くらいを境に、現代社会の課題に重要な変化が起こった。貧困や階級の問題が大きく後退し、そのかわりに、環境、ジェンダー、マイノリティ文化などの問題が新しく重大な関心事となっていった。それに加えて、多くの先進社会では、少子高齢化、社会保障制度の持続可能性、若年労働者の失業など、それまでの産業化のプロセスのなかでは存在しなかったかあるいは一次的にしか存在しなかったような問題に、恒常的に直面することになったのである。
こうした時代の変化をうけて、社会学の研究テーマは多様化し、分散し、拡散していった。それは一方では新しく、革新的で、創造的な探求の広範な展開を意味していた。しかし他方では、社会学のアイデンティティの拡散であり、伝統的な社会学とのつながりの希薄化であり、学問的共同性の弱まりを意味することになってしまったのである・・
・・1970年代以降の社会学の混迷には、それまで無意識のうちに前提とされていた「社会」の観念が壊れてきたことが無視できない背景としてある。端的に言って、「客観的に実在する社会」というものが前提されていたのであるが、その前提が崩れてしまった。それによって、「客観的に実在する社会」を対象とする経験科学としての「社会学」という構図が解体してしまったのである・・

その関連で言えば、東大出版会PR誌『UP』5月号に、盛山先生が「近代、理論、そして多元性―戦後日本社会学の世代論的素描」を書いておられました。これは東大出版会60年を記念して、各学問分野で「60年を読む」というシリーズの一つです。4月号は地球科学について、木村学先生の「回顧 地球科学革命の世紀」でした。プレートテクトニクス理論が、簡単には受け入れられなかった歴史が紹介されていました。

日本社会型雇用とリスク意識

2011年6月2日   岡本全勝

リスク論を勉強する過程で、山岸俊男、メアリー・ブリントン著『リスクに背を向ける日本人』(2010年、講談社現代新書)が、参考になりました。いくつか紹介します(この仕事に就く前に読んで、放ってありました。忘れないように書いておきます)。

雇用の安心には二つの形がある。一つは終身雇用型、もう一つは再雇用のチャンスがあること。すなわち、日本での雇用の安心は、企業に就職し定年まで雇用が保障されることで、雇用の安定とは、首を切らないこと。雇用不安は非正規雇用が増えるからで、正規雇用にして簡単に首を切れないようにすることが安心。他方、北欧は、会社にしがみつくのではなく、失業者に訓練の機会を与えて、より生産性の高い産業で再雇用されるように支援するやり方。

アメリカの社会学者マーク・グラノヴェッター教授が唱えた「ウイークタイズ(弱い結びつき)」。家族や親しい友人などに代表されるストロングタイズ(強い結びつき)から得られる情報は、つながっている人たちの輪が限られているので、すでに自分も知っている情報と変わり映えがしない。しかし、それほど親しくない知人からは、自分が知らない情報を得られる可能性が高い。

「空気が読めない」=KYという言葉が流行った。これは、自分の意見を発信することで、まわりの人たちを変えていこうという発想がないことを意味いしている。まわりの人たちを変えていこうというんじゃなく、まわりの人たちから受け入れられているかどうかにだけに目が向いてしまっている。場の空気を乱さないよう、まわりの人たちが何を考えているのかを予想して、そうした考えに自分を合わせるためのコミュニケーションに気をとられてしまう。
終身雇用制が確立している日本では、今の会社を首になった人は、別の会社では簡単に雇ってもらえない。だから、今の会社の仲間や上役から嫌われないようにするのが、無難な行動原理。とりあえずそういう行動をとると、本当に欲しいものを手に入れることができなくなるコストがあるが、まわりの人からつまはじきにされるというもっと大きなコストは避けることができる。アメリカ人にとっては、今まわりにいる人に嫌われても、別のチャンスがあるから、自分の意見を主張する。
アメリカにも「空気の支配」はある。ケネディ大統領の最初で最大の失敗であるキューバのピッグス湾上陸作戦。CIAの甘い見通しをもとにした強硬意見がその場の「空気」を作りだし、冷静な判断が抑えられてしまった。

日常生活での時間の意味

2011年5月29日   岡本全勝

夜、布団に入ってしばらく本を読むのが、長年の習慣で、楽しみです。しかし、この仕事に就いてからは、すぐにまぶたが閉じて、1冊の本をなかなか読み終えることができません。
そのような中でも最近読んだ、木村敏『時間と自己』(1982年、中公新書)に、次のような話が載っていて、なるほどと思いました。先生は著名な精神病理学者です。分裂病者やうつ病者にとっての「時間」から、時間の意味を分析した本です。

・・デジタル時計は、一目で時間が読みとれるから、アナログ時計に比べて格段に便利だろうというのが予想だった。ところが、何となく不便なのである。頭の中でしばらくその時間をぼんやり遊ばせておかないことには、時間の実感が生まれてこないのである。この独特の違和感の実質をよく考えてみると、そこから次のようなことがわかってくる。
われわれが日常、時計を用いて時間を読み取る場合、現在の正確な時刻それ自体を知りたいと思っているのではなくて、ある定められた時刻までに、まだどれだけの時間が残されているのか、あるいは逆にある定められた時刻から、もうどれだけの時間が過ぎたのかを知りたいのである。朝の出勤までにあと何分残っているか・・。
デジタル時計だと現在の時刻しか表示されないから、あらかじめ決められている時刻を示す数値のとのあいだで、引き算をしなくてはならない。アナログ時計の場合だと、二本の針によってそのつど作られる扇形の空間的な形状とその変化から、この「まだどれだけ」と「もうどれだけ」とを、いわば直感的に見て取ることができる。
この「まだどれだけ」と「もうどれだけ」の時間感覚は、二つの数値のあいだの演算によって与えられる時間の量にはけっして還元しつくされない、もっと生命的で切実な心の動きである。たとえば会社に遅刻しそうだとか・・

私の身の回りの時計は、すべてアナログです。出張してホテルで泊まった時、夜中に目が覚めてのベッドの近くの時計を見ると、デジタルの時は困りますね。あと何時間寝ることができるかを知りたいのに、寝ぼけた頭で引き算をしなければならないのです。
次のようなことも、書いておられます(これも要約してあります)。

・・目覚まし時計のような完全に私的な時計による現在時刻の告示でも、結局は学校や職場などの公共時間やそれに基づく統一的な行動に自己の時間や行動を統合するという目的をもっている。共同体の制度的な時間や行動よりも自己の固有の時間や行動を優先させる人にとっては、目覚まし時計の音は有害無益な騒音以外のなにものでもないだろう。しかしそのような人でも、旅行に出かけようと思えば時刻表に載っている列車の発車時刻やそれを知らせるベルの音を無視することはできない・・。
われわれの大多数が外出する時に時計を忘れずにもって出かけ、一日に何回となくそれに眼をやるということの意味も、もう一度考え直さなくてはいけなくなる。時計を見て、もうどれだけの時間が過ぎたとか、まだどれだけの時間が時間が残っているとかいうことが切実な問題になるのは、実は時計の示す時間が私的で個人的な時間であるよりも、公共的な共同体時間だからなのではないのか。われわれが時計を見なければならないのは、人間が社会的な動物であって、共同体の制度を内面化することによってしか、個人の生活をいとなむことができないからなのではあるまいか・・

政府を信じない、でも信じていた

2011年5月26日   岡本全勝

(政府を信じない、でも信じていた)
朝日新聞5月24日夕刊に、しりあがり寿さん(4コマ漫画、地球防衛家のヒトビトの作者)が、次のようなことを書いておられます。
・・その時、ボクは思いました。そうかボクたちはずいぶん大きな賭に負けたんだなあ・・絶対安全なんてこの世にないことはわかっちゃいるけど、危険を訴える人がいるのは知っていたけど、まさかあの原発がこんなことにはならない方に賭けていた。
政府や企業は都合の良いことしか言わないことはわかっていた。だけど多少のごまかしがあっても、自分たちの生活を脅かすほどのことはない方に賭けていた・・

日本の幹部教育の失敗。初中等教育への賞賛と、大学教育の凡庸さ

2011年5月25日   岡本全勝

4月20日の日経新聞経済教室に、苅谷剛彦オックスフォード大学教授が、「学歴インフレ脱却急げ」を書いておられました。
今回の大震災と原発事故に際し、社会の土台や現場を支える一般ないし中堅の人たちの、整然とした助け合いと献身的な救助活動と事故処理に比べ、指導力を発揮し責任を負うべき「幹部」たち(政治家、官僚、電力会社のトップ)の対応に疑問符がつけられたこと。予想を超えた緊急事態とはいえ、いや、まさにそういうときだからこそ、指導的立場にある人々の「底」が見えたことを指摘し、これは日本の教育の国際的な評価、すなわち初中等教育への賞賛と、大学教育の凡庸さという見方とも符合すると主張されます。そして、次のように述べておられます。
・・1998年以後、新卒就職者に占める4年制大学卒業者の割合が高卒者を抜き、学校を終え仕事に就く若者の主流が大卒者になった。ところが、大卒者の就職の仕組みは、実質的にはいまだに「大学教育無用論」と呼べる状態が続いている。大卒者の大半を占める文系就職の場合、大学で何を学んだかが就職の際に問われない。どの学部を出たのかもどんな成績を取ったかもである。他方で、大企業や有名企業への就職のチャンスは、実態としては今でも大学の偏差値ランクの影響を受ける。
こういう状態が続いてきたのには理由がある。90年代半ばまでは、長期雇用と長時間労働を前提とした、仕事に就いてからの職業訓練の仕組みが、良くも悪くも機能した・・
・・他の先進国で学歴インフレという場合、ある企業に就くために有利となる学歴が、学部卒から大学院修了と変化するように、より高い段階への学歴へのシフトを意味する。知識経済化の下では、教育年数といった量の増加だけではなく、そこで行われる教育内容の高度化の面からも、人的資本の向上が求められる。高学歴化の一層の進展はその反映といわれる。
それに対し、日本で生じている学歴インフレは(理工系を除き)、大学入学時の偏差値ランクの上昇による選抜基準の上方シフトという、ふるい分けの面での変化であり、教育内容の高度化や教育年数の増加を伴わない・・
・・様々な比較調査が示すように、国際的にみても日本の大学生は大学外での学習時間が相当に短い。授業に予習が課されることもほとんどない。それは選抜度の高い大学でも変わりない。たくさんの文献を読みこなし、自分の考えを論理的に表現することが求められるリポートを書き、議論の仕方を身につけ、良い成績を収めてされに大学院で専門教育を受けるー米国の有力大学や筆者が勤務する大学では当たり前に行われていることに比べると、日本の大学はアルバイトと就職活動のための期間に見えてしまう・・
詳しくは、原文をお読み下さい。