カテゴリーアーカイブ:社会の見方

表現と主張の違い

2019年12月3日   岡本全勝

読売新聞12月2日一面コラム、山崎正和さんの「あいちトリエンナーレ 表現と主張 履き違え」を読んで、よくわかりました。
この夏、愛知県の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展が反対者の脅迫を受け、展示を中止した事件です。

・・・というのは私の見るところ、ことの発端には企画者の重大な思い違いがあって、それが問題の根本的な種を蒔いていたのに、その点を指摘する声は聞かないからである・・・
・・・とくに「不自由展」の目玉が現下の外交的な争点である、いわゆる従軍慰安婦の問題だと聞くにつけて、企画者は「表現」と「主張」という言葉を取り違えたのではないか、というのが第一印象であった。そもそも企画者は、言論人として、自己表現と自己主張の違いについて一度でも真剣に考えたことがあったのか。二つは似ているように見えるものの、本質はむしろ正反対であることに気づかなかったのだろうか・・・

・・・しかし、そのうえでなお遺憾とすべきは、今回の展示品が宣伝芸術としてすら粗略に扱われ、核となるはずの表現はほとんど無視されていることである。
もし、あのいわゆる従軍慰安婦を象徴する少女像が芸術上の作品として制作され、それとして評価されていたなら、その純造形的な側面について、これまで何らかの批評があってしかるべきだろう。彫刻としての色と形、素材の選択や技法について、少なくとも企画者による評価が語られてほしいところだが、それが全くない。これでは作品は宣伝「芸術」としてすら、正当に遇されたとはいえないのではないか。
同じことは「表現の不自由展」の他の展示品、昭和天皇の肖像を用いた作品を燃やす映像についても指摘できるから、残念ながら、この企画は表現といえないばかりか、主張の展示としても適格性を欠くといわざるをえない・・・

いつもながら、山崎先生の分析は鋭いです。

電子立国からの転落

2019年11月30日   岡本全勝

11月29日の各紙が、パナソニックが半導体事業から撤退することを伝えていました。台湾のメーカーに売却するそうです。
半導体はかつて、電子機器類の基本的部品として「産業の米」と呼ばれていました。1980年代には、日本が世界の生産量の半分を占め、「電子立国」と高く評価されました。しかしその後、アジア各国の追い上げに、急速に地位を落としました。

朝日新聞の記事に着いているグラフが分かりやすいです。ところが、このグラフでは、アメリカはシェアを減らしていないのです。
世界一と呼ばれた日本の電子産業は、何を誤ったのでしょうか。

ある人に聞いたら、次のような理由でした。
1980年代まで、日本がシェアを増やし、その分アメリカが減らします。まだアジア各国は、出てきていません。その当時の主たる製品は、メモリ半導体でした。この分野では、1990年以降、アジアが日本のシェアを奪います。
他方で、新しくシステムLSIが出てきます。これはメモリが単に情報を備蓄するだけの容器に対して、情報を加工、処理する機能を持った「頭脳」です。アメリカは、このより高度な分野で生き残ります。日本は旧来型製品で後発国にシェアを奪われ、新製品に進出できなかったのです。
これはまた、時代が、モノづくりから新しいことを考えることへ変わっているのに、その流れに乗ることができなかった一つの例とも言えます。

詰め込み教育からの脱却

2019年11月29日   岡本全勝

11月27日の朝日新聞が「変わる定期テスト ノート持ち込みOK」を伝えていました。詳しくは記事を読んでいただくとして。

定期テストに、自学ノートなら何冊でも持ち込める公立中学が紹介されています。もちろん、記述式です。この自学ノートは、毎日1ページ以上自宅学習し、教員に提出する自作のノートです。原則手書きのみで、教員が毎日、中身を点検します。

良い改革だと思います。これまでの試験の多くは、記憶力を問うものでした。一夜漬けで、試験が終わると忘れて、それでおしまいになってしまいます。そして、それら覚えることは、社会人ではほぼ活用されません。それよりは、考えること、それを文章にすることの能力が重要です。

私も、大学で教える際は、試験は記述式にしました。そして最近は、ノートも書物も持ち込み可にしています。学生たちに暗記を強いることは、非生産的です。それより、ポイントを理解し、どこを調べれば分かるかという能力をつけて欲しいのです。

欧米のエリート採用

2019年11月28日   岡本全勝

11月26日の日経新聞夕刊、海老原嗣生さんの「就活のリアル」は「超高年収新卒採用の課題 エリート選抜の根拠甘く 」でした。欧米のエリート採用の厳しさが、紹介されています。

・・・ブランド校の学生数が極めて少なく、少数精鋭となっている。米国の主要大学、ハーバードやスタンフォード、エール、プリンストンなどは文理合わせて1000人超の定員数だ。同様のフランスの名門グランゼコールは500人程度だろう。対して日本は慶応大学が7000人、早稲田大学にいたっては1万人にもなる・・・

・・・とりわけ米国のエリート採用は厳しい。リーダーシップ・プログラムという選抜システムがあり、入社後2年間に時限的プロジェクトを多々任され、それを修了した後に本採用となる。その間の脱落率は5割にもなる。ここまでやるから、エリート待遇も成り立つ。

日本の甘い甘い採用慣行の中に、形だけ欧米要素を取り入れてもうまくはいかない。こうした奇をてらう学生集めは、毎年打ち上げ花火として耳目を集め、しばらくすると消えていく。
雇用関連を見つめてもう30年になるが、いつもながら感じるのは大企業の人事は流行ものに弱いということだ。学歴不問採用、一芸採用、異能人材など一風変わった採用で耳目を集めたケースは多々ある。ただ、そんな小手先の施策は、決して良い結果は残していない・・・

この内容を見ると、日本は確かに甘いですわね。これまでは、それでやれたのです。しかし、競争相手のいなかった唯一の追いかけ国だった昭和の日本と、欧米だけでなくアジア各国と国際的に生き残りを賭けた競争をしなければならない令和の日本とでは、条件が大きく変わりました。
優秀な幹部を育てない会社は淘汰されます。では、地域独占企業である自治体はどうか?

ルフェーブル「1789年―フランス革命序論」

2019年11月24日   岡本全勝

ルフェーブル著「1789年―フランス革命序論」(1998年、岩波文庫)を読みました。いつか読みたいと本棚で寝ていたのですが、突然読みたくなって。
フランス革命など著名な歴史的事件については、知っているようで知らないですね。かつて読んだことは、忘れていますし。
この本は事件の経過を書いたものではなく、1789年の出来事を4つの時間、4つの意味に分けて説明します。

1つめは、アリストクラート(貴族と高位聖職者)の革命です。王権に対して、自らの地位を高めるべく挑戦します。三部会の開催は、ここから始まりました。
しかし、三部会を開くとなると、アリストクラートの意向だけでなく、ブルジョワジーが発言力を高めます。第2期は、ブルジョワジーの革命に移行します。
ところが、彼らが時間をかけて議論していることに対し、民衆がしびれを切らして行動に移します。元は、パンの値段が高くなったことです。不満は、バスティーユ監獄襲撃になります。もっとも、知られているように、バスティーユ監獄にはそれだけの政治的意味のある囚人はとらわれていなかったのですが。こうして、意図せず、第3期の民衆の革命に移行します。
さらに、地方での民衆の動きに波及し、第4期の農民の革命にまで広まります。

シナリオなき歴史の展開は、読む人を引き込みます。
このように、どのような主体がそれぞれの意図に沿って動き、それが結果としてどのような意味をもったかを説明します。議会の中での議論が革命を進めたのではないことがよくわかります。それまで書物と違い、民衆までを含めた点に、この本のもつ意義があったようです。

こうして、半年の間に、誰もが予想しない展開になってしまいます。後知恵ですが、先を見越して途中で、王や貴族たちが妥協しておれば、ここまで進むことはなかったでしょう。しかし、事前に識者たちが考えていた「自由や平等を実現する政治形態」を超えて、王政廃止に進むのです。
そして、この本で書かれた1789年の後には、王やたくさんの政治指導やたちの処刑が続きます。いったん動き出した革命は、さらにとんでもない混乱になってしまいます。

ルフェーブルがこの本を書いたのは、1939年。フランス革命150周年記念としてです。フランスは、第2次世界大戦直前です。学術的論文と言うより、国民への啓蒙のため、迫り来る危機の前で、フランス革命が目指した自由と平等を再確認したいという意図があったようです。
訳文も読みやすいです。もっと早く読んでおくべきでした。