カテゴリーアーカイブ:社会の見方

不必要な戦争

2026年5月5日   岡本全勝

4月16日の朝日新聞オピニオン欄は「不必要な戦争」でした。
・・・米国がイスラエルと仕掛けたイランへの先制攻撃。明確な目的や戦略を欠き、同盟国を説得する大義もない。多数の人命が奪われ、米イランの直接協議も実を結んでいない。トランプ大統領の「不必要な戦争」はなぜ起きたのか。世界をどう変えるのか・・・

リチャード・ハース(米外交問題評議会名誉会長)の「慎重さも正当性も皆無な選択」から。
―戦争には「必要な戦争」と「わざわざ選んでする戦争」があり、区別が重要だと論じていますね。
「『必要な戦争』は、死活的な国益が懸かっていて、軍事力以外に方法がない場合です。例えば、ロシアに侵攻されたウクライナの戦争です。『わざわざする戦争』とは国益が死活的とまで言えないか、軍事力以外でも同じかそれ以上の確率で達成できるのにあえてする、という戦争です」
「私が米政権内で関わった戦争では、1990~91年の湾岸戦争が『必要な戦争』、2003年からのイラク戦争は『わざわざする戦争』だったと考えます。私はイラク戦争に反対でした。自分が賛同していない政策を日々、擁護する役割を求められ、政権の途中で去ることになりました」
「私は『わざわざする戦争』が絶対に悪いとは考えていません。ただ、軍事力は重大な結果をもたらすため、『わざわざする選択』においてはなおさら、極めて慎重な検討が必要だとの教訓を得ました。当時の米政権は、イラク戦争の潜在的影響について熟考していませんでした。イランの影響力が強まったことも重大な悪影響の一つです」

―今回のイラン攻撃はどう位置づけられますか。
「正当化の余地が全くない、浅はかな『わざわざする戦争』でした」

―そもそも戦争の目的が不明確ですね。
「全くその通りです。トランプ氏と政権は、イランの体制転換、反体制派の保護、核開発能力の一掃など、様々な戦争目的を掲げてきました。戦闘が始まってからは(イランの『反撃』で実質的閉鎖に至った)ホルムズ海峡を開放するとか、イランの軍事能力を弱めるとかいった目的が加わりました。本来は、戦争が始まってから目的を広げることがないよう、極めて慎重を期さなければならないのです」

―目的が不明確なため、「この目的を果たせば戦いは終わり」という出口も見えません。
「本来は一時的な停戦ではなく、公式な和平の合意で終えることが望ましい。ただ、核問題やホルムズ海峡危機を巡ってイランとの合意に至るのは極端に難しくなっており、(戦いが終わるとしても)かなり限定的な公式の合意にとどまるか、全く何の合意もできない可能性があります」

近代経済学を越えて

2026年5月4日   岡本全勝

私は大学で経済学や財政学を学び、その切れ味に目を開かされました。教科書はサミュエルソンなどでした。財政学は貝塚啓明先生でした。わかりやすかったです。価格が需要曲線と供給曲線の交わるところに落ち着くこと。国民経済計算の三面等価など。
地方財政を職業にしてからは、神野直彦先生に教えを請いました。財政の地方分権、三位一体の改革で、国税から地方税への税源移譲も、神野先生の理論的支えによって実現しました。

ところがその後、いささか不満を持つようになりました。
1つめは、経済学の教科書に載っている分析は、極端な単純化をしています。人はすべて合理的に判断行動し、商品はリンゴとミカンの2つだとか。すべての情報を手に入れて、瞬時に判断するとか。世の中、そんな単純ではありませんよね。「二つの脳、直感と熟慮
2つめは、数式が多用されますが、その割には現実を分析しているとは思えないことです。専門家同士はそれで良いのかもしれませんが、多くの国民は「そんな難しい数式を使わなくても、もっとわかりやすい言葉で説明してくれよ」と思います。
3つめは、数式や分析が精緻化しているのに、現実の経済問題を解決している、あるいは経済問題に取り組んでいるとは思えないことです。日本では、30年間にわたって経済停滞が続きました。格差や子どもの貧困も大きな問題です。それらに取り組まずに精緻化しても、有用とは思えないのです。
4つめは、私が大学で経済学を学んで以降、目を見張るような革新や進歩があったようには見えないのです。

天気予報などは、観測技術とコンピュータによる計算が進んで、精度が向上したようです。このような数式の利用は納得できるます。
門外漢の感想です。経済学者からは反論が、そして「政治学や行政学も同じ、いやもっと有効ではないではないか」との批判が来そうです。

政治的争点を避ける教育

2026年5月3日   岡本全勝

4月15日の朝日新聞「政治的争点、ドイツ「意見の違い尊重」日本「扱い避ける傾向」 主権者教育のありかた探るシンポ」から。
・・・日独の関係者が主権者教育のありかたを対話するシンポジウムが3月、都内で開かれた。民主主義の社会を育てるための学校教育のありかたを語り合った・・・

・・・ ドイツは戦後、ナチス時代の反省から、「連邦政治教育センター」を設立。研究者らが、政治的中立の3原則を掲げた「ボイテルスバッハ・コンセンサス」を合意した。
日本は1969年、高校生の政治活動を旧文部省通知で規制するなど抑制的な姿勢を続けた。だが18歳選挙権の開始を前に、文科省は2015年、校外の政治活動を原則容認する通知を出し、方向転換した。

シンポジウムでは、ヨハンさんが、同コンセンサスについて(1)教員による意見の押し付けを禁止(2)政治的に争点のあるテーマは授業でも論争的に扱う(3)生徒が自らの利害関心に基づき政治状況を分析し、政治参加の方法と手段を追求できるようにならなければならない、と説明。「中立というより意見の違いを尊重する多角的視点を大事にしている」と話した。

大畑教諭は、文科省の22年度の調査で高校1年生に主権者教育を実施していると答えた884校のうち、「公職選挙法や選挙の具体的な仕組み」を教えた学校が76%なのに対し、「現実の政治の話し合い」は29%と少ないことを紹介。「政治的中立を理由に、授業で政治的争点を扱うのを避ける傾向がある」とした。
甲斐さんは「普通の学校は知識をインプットすることが中心で自分の意見を考える機会が少ない」とし、「日本は本当に政治教育をやろうとしているのか」と投げかけた。
文科省の合田局長は甲斐さんの問いに、15年の通知から「学校における政治的事象の指導においては、一つの結論を出すよりも結論に至るまでの冷静で理性的な議論の過程が重要」を引き、「我々はやる意思がある」と答えた・・・

福井ひとし氏の公文書徘徊12

2026年5月1日   岡本全勝

アジア時報』5月号に、福井ひとし氏の連載「一片の冰心、玉壺にありや?―公文書界隈を徘徊する」第12回「石油の国・ニッポン」が載りました。詳しくは、記事を読んでいただくとして。

20世紀は、石油の世紀でもありました。動力源が人力や家畜から石油に、エネルギーが木炭や石炭から石油に、そして電力の源も石油に、自動車の燃料として、さらに化学製品へと、世界の活動は石油に浮かぶようになりました。今回の記事は、石油の世紀の幕開けに対応した明治政府(の公文書)から始まり、太平洋戦争(この戦争は石油を確保する争いでもありました)、戦後の石油確保の苦労、そして石油危機へと、話が進みます。

若い人はご存じないでしょうが、1978年に起きた石油危機(第一次)は、それはそれは大変なものだったのです。私は大学1年生でした。トイレットペーパーがなくなることを想像してください。もっとも、トイレットペーパー生産が停止したのでもなく、国民がたくさん使うことになったのでもありません。業者が便乗して値上げを狙って、出荷を抑えたというのが真相のようです。街からネオンサインが消え、暗い夜になりました。ただし、戦時中の物資不足を経験した父と母の世代は、衝撃は少なかったでしょう。

今回のイランとアメリカの戦争で、石油や石油製品の品不足が心配されています。石油危機に懲りて、日本政府は石油の備蓄に取り組みました。そのおかげで、現在のところ、大きな影響は出ていないようです。石油があることが普通の生活になじんだ若者には、なかなか想像がつかないと思います。しかし、少し歴史を遡れば、よく似た事案があります。
世界には石油備蓄が少なく、困っている国もあるようです。日本も余裕ある備蓄があれば、融通することができるのですが。そこまではありませんかね。

最後に「油断大敵」の語源が紹介されます。油がなくなることではないのですね。いつものことながら、執筆者の博学博識ぶりと、公文書を漁ってくる努力には脱帽します。

日本語研究はグローバル化ではない?

2026年5月1日   岡本全勝

4月9日の日経新聞夕刊、グレゴリー・ケズナジャットさんの「グローバル化の言語」から。
・・・大学院を卒業したとき、在留資格を変更した。在学中は「留学生」として滞在していたが、卒業後にこの資格は失効になるので、日本に残って就職する場合はいわゆる就労ビザを取得する必要がある。僕はその頃に新しく導入された「高度専門職」の資格を申請することにした。
高度専門職の在留資格は、審査の結果がポイントによって決められることが特徴だ。ごく簡単に説明すると、国が求める「グローバル」人材の理想像に近いほど点がつく。大学卒業者は10点だが、博士号取得者は30点、30歳未満ならそれだけで15点加算される、年収が高いほど点数が増えるなど、社会人、納税者としての貢献度が数値化されて評価対象になるのだ。

申請時、僕はそれほど若くもなく、年収も微々たるものだったけれど、研究者の場合、論文も評価対象になるので、これでぎりぎり取得できるのではないかと期待した。在学中に発表した、日本近代文学に関する論文のコピーを用意して、他の申請書類とともに入国管理局へ提出した。
ところが係員が予備審査を終えると、ポイントが不足していると伝えてきた。なぜなら、僕の論文は対象外であるからだという。原則として、SCOPUSなどの海外の有名な研究データベースに記録されている論文のみが認められるそうだ・・・

・・・結果として、日本文学の研究者の場合、英語ではなく日本語で研究を行い、国内の学術誌で論文を発表すると、日本の在留資格を申請する際にかえって不利になる。あまりにも不思議な答えで、落胆を通り越して滑稽に思えた。
法務省が意図的に文学などの文系研究の業績を対象外にしたわけではないだろう。高度専門職の資格が創設されたとき、おそらく理系の研究者が想定されていたと思われる。しかし英語で書かれた論文が評価対象になり、日本語で書かれた文系研究の論文が実質対象外になるのは、国のグローバル化に対するアプローチをうまく表象している。
日本でグローバル社会を築き上げる必要性について情熱的に語る声をたびたび耳にする。だがその課題は外国語、とりわけ英語と関連づけられることが多く、日本語の中ですでに行われているグローバル化は往々にして視野に入らない・・・