同じく、14 問題点の指摘と第三者委員会のからの提言、「(3)取材チームの編成の開示、署名記事及び社説執筆者の明示について」(p89)に、次のような記述があります。
・・また、今回の検証では、ついに筆者の特定できない記事もあった。その点も考えると、継続性のある重要な報道に際しては、その都度取材チームの編成、および執筆記者名を明らかにするなど、より透明性のある編集体制を望みたい・・
・・社説についても、論説委員らの合議によって内容を決定するため、執筆者個人の意見の表明ではないというが、専門分野をもつ執筆者の意見が中心であって、その氏名を記載して文責を明らかにした方が妥当なものもあろうから、責任を明確にするためにも、可能な限り執筆者は特定することを検討すべきであろう・・
私も、かねてこの2点を主張しています。特に、社説はどのような位置づけなのか、よくわかりません。察するに「論説委員の合議意見」のようです。それよりは、「論説委員の合議により、××委員が責任執筆した」という方が、責任の所在が明確になると思います。
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朝日新聞、報道検証第三者委員会報告
新年2日の話題にはふさわしいとは思いませんが、このような休みの時期でないと、ゆっくり読めないので。
朝日新聞が、慰安婦報道に関して、間違った記事を書き、さらに取り消しや謝罪が遅れたことの検証です(12月22日報告書など)。大きく報道されたので、多くの方がお読みだと思います。報告書の最後の部分(14 問題点の指摘と第三者委員会のからの提言。p85以下)を拾い読みして、なるほどと思った点を書いておきます。
1 「(7)言論機関における第三者委員会設置についての注意喚起」に、次のような記述があります。
・・民主主義社会において、「報道の自由」は、憲法21 条が保障する表現の自由のうちでも特に重要なものであり、日本の判例上もそのように認められてきた(最1判昭53年5月31日刑集32巻3号457頁)。この点に鑑みれば、特定の新聞社のあり方について、たとえさまざまな不祥事や事件があったからとはいえ、そのあり方や評価をメディアの外部に委ねることは、必ずしも最良の措置とは言えない。
当報告書は、この点を十分に認識した上で、朝日新聞社に対して、あえて社外から見た問題点を多岐にわたって指摘した・・
私も、これは疑問に思っていました。2重の意味で、問題だと思います。
まず一つは、問題を起こした組織が自ら検証をせず、他者に委ねることの問題です。「身内の調査では不十分だ」との批判があることは承知していますが、自ら検証せず他者に委ねることは、責任を果たしたことにならないと思うのです。他人に任せると、しばしばマスコミは「自浄能力が試される」と批判します。
また、報告書に、朝日新聞社はどこまで責任を持つのでしょうか。第三者委員会も、人選やテーマの設定、さらには議事の進め方によって、必ずしも客観的とは言えないこともあるのです。かつて各省が設置した審議会について、「官僚の隠れ蓑」と批判されたことは、記憶に新しいです。今回の検証委員会のメンバーは、日本を代表するすぐれた人たちであることは間違いありませんが。
もう一つは、報告書が指摘しているように、報道の自由を主張する新聞社が、報道のあり方を第三者に委ねることは、大きな問題です。製造業の会社が、事業のあり方の検討を第三者に委託することとは、意味が違います。そんなことはないと思いますが、将来何らかの事件があって、国会や政府に「マスコミの報道のあり方に関する第三者委員会」が設置されるようなことがあったら、マスコミはどのように反論するのでしょうか。
この項続く
誤報を書く新聞
岩波書店のPR誌『図書』11月号に、佐藤卓己さんが「誤報事件の古層」を書いておられます。戦前の朝日新聞が、どのような誤報を出したか、またそれを隠蔽したかを解説しています。会ってもいない人とのインタビュー記事をでっち上げたり、それを自慢する風潮もあったようです。間違ったという誤報でなく、嘘を書いたという誤報です。面白いですが、新聞の役割を考えさせられます。
誤報の他にも、新聞やマスコミの「罪」が起きるあります。それは、「書くべき事柄を書かない」という場合です。社会の木鐸として、警鐘を鳴らすべき時に、知らないふりをすることは、大きな罪です。専門誌や雑誌なら、「ある分野に特化しているので」と言い訳できますが、新聞は社会の問題全般をとらえることも大きな役割です。
アカデミズムとジャーナリズムの関係
昨日紹介した月刊『ジャーナリズム』2014年9月号「特集 時代を読み解く珠玉の200冊」のp25、田所昌幸・慶應大学教授の文章から。
・・そのアカデミズムとジャーナリズムは、お互いにあまり好意を持っているとはいえないのが実情ではないか。しばしば気づくのは、ジャーナリズムの世界では「学者」というのは褒め言葉というわけでななく、「観念的」とか「非現実的」とかいうことの代名詞として通用しているように見えることだ。また、大学で教えているというだけで、なぜか妙に敵対的な態度をとるジャーナリストに遭遇することもある。それにしては退職して大学の教員になっているジャーナリストが多いのは不思議なことだが。
確かにアカデミズムでは、何らかの主張をするための知的な手続きが厳格で、結論を出すまでの手順に慎重を期さねばならないのは事実である。それで歯切れが悪いとか、ハッキリしないとかいう反応が多くなる。
逆に、アカデミズムの側の人間には、ジャーナリストはいつも結論を性急に出そうとするとか、ありきたりの枠組みでいつも同じような言説を発しているという思いがある・・もっとも、見下している割には、テレビや新聞に登場できると、うれしくなるアカデミックが多いのも、お互いさまというべきだろう・・
政治評論、マスコミの役割
粕谷一希著『粕谷一希随想集2 歴史散策』(2014年7月)p233「馬場恒吾と石橋湛山―政治批評について」は、次のような書き出しで始まります。
・・政治評論の世界は、政治家の世界ほど派手でも強烈でもない。あるいは文芸評論の世界ほど、青春の深部に刻印を残す世界でもない。それは人間が社会人として成熟してゆくとき、散文的な日常と共に、次第に眼を開かれてくる切実な世界なのである。したがって、その世界に生涯を捧げた本編の馬場恒吾とか石橋湛山といった名前にはあまり色気や魅力をもった響きはないかもしれない。けれども今その日本の状況を省みるとき、私にはある切実な渇望と共にその存在が甦ってくる。
―現代の日本には、こうした政治評論の原型が見失われてしまったのではないか。政治の混迷もはなはだしいが、それにもまして、そうした政治を批評し切る存在とか視点が、欠けてくることで、日本全体が盲飛行の状態に陥ってきてはいないか・・
これは1979年に発表された文章です。
日本の政治やについて、水準が低いとか、遅れているといった批判は、毎日のように聞かれます。しかし、批判をしているだけでは、改善はされません。
その批判の多くは、欧米(の一部)を基準にしたものであったり、単なる理想像からのものです。世の中、そんな簡単にできていないので、ある改革を実現しようとしたら、その道筋を考えなければなりません。改革には反対派が必ずいます。国民の支持をどう取り付けるか、党内の合意をどう付けるか、財源はどうするのかなどなど。「減税はします、福祉も充実します」ことが両立しないことは、高校生でもわかることです。
「国民の水準以上の政治家は生まれない」「国民の水準に合った政治しか成り立たない」という警句があります。
日本の政治や政治家を批判し、よりよいものを望むなら、現実の政治や、政党、政治家をけなしているだけではだめです。政策にあっては、代案を出したり、その実現への道筋を提案しなければなりません。政党や政治家については、どこが悪くて、どこが良いのかを指摘すべきでしょう。そして、育てなければなりません。
「マスコミの役割は権力を監視すること」「政府と対峙することだ」という主張があります。それは理解できますが、あれもダメ、これもダメと批判ばかりしていては、政治家も政党も成長しません。政策も実現しません。批判をするだけなら、楽なものですわ。
ここには、もう1つの要素があります。毎日の政治の動きや政治家の動きを追いかけていても、政治評論は成り立ちません。中長期的な視野から、政策と政党や政治家を追いかける必要があります。政策も政治家も取っ替え引っ替えしているようでは、アイドルと同じで使い捨てになります。
それは、マスコミの政治部記者の勤務実態とも関係しています。記者たちは、1年か2年で異動を繰り返します。ある政策を長く追いかけることは、あまりないようです。また、少し離れた位置から、日本政治を考えることも少ないようです。
政治評論の役割は、御厨貴著『馬場恒吾の面目』を紹介する際に言及したことがあります(2014年1月22日)。この本を読んだ時に思うところがありましたが、放っておいたら、粕谷さんの随想集第3巻が出版されました。