「ものの見方」カテゴリーアーカイブ

単線、系統樹、網の目2

単線的思考の続きです。ものごとの発展・進化の見方を、単線と系統樹と網の目に分けて議論しています(しばらく放ってあって、すみません)。今回は、系統樹的見方の限界について。

系統樹は、複数の路線に別れます。生物の進化の図が、わかりやすいですね。ある時点でも、複数の種が共存します。それぞれに、住む場所や食べ物を争いつつ確保するのです。
ところが、実際には、系統樹は枝分かれするとともに、行き止まりになる枝もあります。今につながるものたちだけが生き残り、ほかは死に絶えます。恐竜、マンモス、エディアカラ生物群などなど。
ヒト属(属名 Homo )も、現在生き残っているホモ・サピエンス以外にも、ネアンデルタール人などいろいろな種類がいたようです。でも、サピエンスだけが生き残ったのです。
ネアンデルタール人とサピエンスが共存していた時代があります。しかしその時点では、その後にネアンデルタール人が死に絶えることは想像できなかったでしょう。体つきは、ネアンデルタール人の方が頑丈だったらしいのです。

この話を、強引に拡大しましょう。
複数のものが同時に存在するとき、その先にどの枝が主になるか。その時点ではわかりません。「みんな仲良く暮らしました」とはならず、「勝ち残ったものだけが生き残りました」となります。そして、どれが勝ち残るかは、その時点ではわかりません。
すると、同時代の歴史、近過去の歴史を書くことは難しいのです。私たちが読む歴史は、済んでしまってから遡る歴史です。結果がわかってから書かれたものです。

単線、系統樹、網の目

事実は小説よりも・・・」の続きです。まず、単線的な考え方についてです。
私は、これを物事の見方の違い、変化の過程の違いとして、考えています。3つの見方、考え方があります。「単線」「系統樹」「網の目」との違いと表現したら、わかりやすいでしょうか。

最も簡単なのは、単線です。多くの小説や、歴史の教科書の記述です。話は一本道を進みます。
次に複数の登場人物の話が展開する場合は、系統樹です。進化の過程が系統樹で表されます。魚類、両生類、は虫類、鳥類、ほ乳類と分化し、さらにその中で分化、進化します。複数の道がありますが、それぞれが単独に進んでいきます。これも、単線的思考です。
これに対し、網の目は、複数のものが単線的に進むのではなく、相互に影響を与えつつ、進んでいきます。

単線と系統樹は、ともに直線的です。因果関係が単線的で、分岐はあるにしても一方向であることを想定しています。これに対し、網の目状関係関係は、因果関係が単線のように簡単ではなく、相互に影響し合います。関係は入り組んでいて、思わぬところに影響が出たり、自分自身に跳ね返ってきます。

これが当てはまる一つが、生物の進化です。学説によると、ウイルスが生物を進化させてきました。突然変異だけでなく、ウイルスが感染することで遺伝子が合体し変化して、種が進化します。縦方向だけでなく、横でも進化が進むのです。進化の系統樹は太い幹が順に枝分かれしたのではなく、いろんなところで交差することになります(2012年6月13日の記述)。
枝分かれだけでなく、混交するのです(ウィキペディア、水平伝播と混合)。

事実は小説よりも・・・

私は、あまり小説を読みません。もちろん、小説も面白いし、勉強にもなります。しかし、それ以外の分野の本を読むのが、忙しいのです。
もう一つ理由があります。日々の暮らしの方が、小説よりも「面白くスリリング」なのです。毎日仕事をしていると、小説に対して「世の中、そんな甘いものやないで」と言いたくなります。

まず、登場人物の数が違います。小説には、通常は何百人も人が出てきません。出て来たら、ややこしくて、読みにくいです。
それに対し、私もあなたも、毎日大勢の人を相手にしています。しょっちゅう会う人、たまに会う人、初めて会う人。好きな人、波長の合わない人。嫌だけど付き合わなければならない人・・・。

そして、小説は、作者一人の視点で書かれています。推理小説は、途中まで全体構造が分からないように仕組んでありますが。たいがいの小説は、作者が神様のように各登場人物を操って、筋書を進めます。単線的なのです。
しかし、私たちの日常は、そんな簡単なものではありません。それぞれの人が、自らの欲望と判断で「勝手に」行動します。たくさんの人が、ブラウン運動の微粒子のように、不規則に動き回ります。話の筋に影響を与える人と、関係ない人とがいます。でも、後にならないと、それはわからないのです。ある結果は、後から振り返ると、それまでに無駄な動きを、いっぱいしています。

それぞれの登場人物にとって、未来は見えていないのです。どのような人生を送るか、どんな楽しみと苦しみが待ち受けているか、分かりません。小説は、終わったことを一つの視点から書きます。
現実は複雑で、予測できません。そして、時には残念な、悲しい結末もあります。その逆が小説です。だからこそ、小説が読まれるのでしょうね。

単線とブラウン運動については、別途書きましょう。

パラダイム転換。考え方を固定化する仕組みと、改革する仕組み

法律や役所機構は、ある政策を継続的に実行させるための「仕組み」です。政府として、国民に対し「このような方針や基準で、政策を行います。これに従ってください」と示し、公務員に対しては「この方針や基準に従って、仕事をせよ」と命じます。
その観点からは、政策やものの考え方を「固定」するものであって、改革する志向は内在していません。制度とは、関係者の行動を定型化するための仕組みであり、それは改革とは相容れません。
ところが、大学の教授には、二つの側面があります。一つは、定説を学生に教える教育者です。もう一つは、新しい事実や学説を探す研究者です。前者は固定化作用であり、後者は改革作用です。
そこから育った卒業生にも、その2つの志向があります。特に科学技術者にあっては、大学に残って研究や教育に従事する人の他に、会社に入って現場や研究所で、大学で習ったことを現場で実践するだけでなく、新しい技術や新製品を開発します。すると、大学や研究所は、改革志向を内在しているのです。もっとも、ここまでに述べてきたように、それは通常科学の範囲であって、パラダイム転換は期待できません。
では、社会科学の分野では、どうでしょうか。教師、公務員、弁護士、ジャーナリスト。そこにも、大学で習ったことを実践するだけでなく、新しい課題を拾い上げ解決する志向があるはずです。ただし、ここでも通常の改革や改善の範囲であって、大きな改革は期待できないということでしょうか。
また、役所にあっては、企画部や総合政策局のように、既存政策を実行するのではなく、新しい政策を考える部局も作られています。すると、この企画部や総合政策局に、どのような課題を与えるか。その責任者の考え方と職員の発想が、重要になります。もっとも、それら部局も、所属する組織を否定するような改革案は出せません。
なお、自然科学と社会科学の未来志向の違いについて、かつてこのページで、次のようなことを紹介しました2005年6月24日
・・東京大学出版会のPR誌「UP」6月号に、原島博教授が「理系の人間から見ると、文系の先生は過去の分析が主で、過去から現在を見て、現在で止まっているように見える。未来のことはあまり語らない。一方、工学は、現在の部分は産業界がやっているで、工学部はいつも5年先、10年先の未来を考えていないと成り立たない」といった趣旨のことを話しておられます・・。

パラダイム転換、行政組織の場合

大学に講座ができると、通常科学の進化は進むが、パラダイム転換は起きないというのは、行政機構も同じです。
ある課題に取り組むために、法律や政策とともに、組織ができます。組織ができ制度化されると、政策と組織が永続化します。 官僚組織は、いったん与えられた任務は深化させます。これは、科学史での通常科学の進化と同じでしょう。しかし、そこからは、自らの組織を拡大する動きは出ても、その組織をつぶすような発想や職員は生まれません。
行政のパラダイム転換には、大から小までさまざまなレベルがあります。大は、行政のあり方、社会における官の役割見直しです。例えば、欧米への追いつけ追い越せモデルからの卒業や、事前指導から事後監視への転換などです。これは、個別の政策の転換ではなく、行政のあり方の転換です(これについては、北海道大学公共政策大学院の年報『公共政策学』に「行政改革の現在位置」を書きました)。
その次のレベルでは、新しい課題への対応と、達成した課題からの撤退です。例えば、環境庁や消費者庁の設置、コメの増産から減反政策へ、国内産業保護から開国へ・・。政策の転換は、新しい分野の法律制定や法律の大改正といった形で現れます。また、予算や人員を、新しい課題へと振り替えます。新しい組織も作られます。
行政機構では、誰がパラダイムの転換を主導するのか。これが大きな課題です。
「官僚機構とは、与えられた任務を実行する組織だ」と定義すれば、ここで提起しているようなことは問題になりません。「各官僚機構が取り組むべき課題は、政治家が与えるものだ」と仕組めば、官僚機構は自らの任務を変更する義務はありません。
大きな政策転換は、時代と国民が求め、政治家が主導するのでしょう。しかし、それより小さな転換は、各省幹部の責任だと思います。問題は、パラダイム転換的な任務と発想の転換を、行政機構の内部に、どのように仕組むかです。
私が官僚として考え続けていたことは、官僚組織が自らのパラダイム転換をどうしたら実現できるか、ということでもありました。