今年も、孫娘と種をまいたアサガオ。種をまくのが遅く、お向かいのお師匠様に「生育が遅く、蔓も細いですね」と、診断を受けたのですが。
その後元気よく葉が茂り、蔓も太くなりました。支柱と水平の枠(円形の針金)に這わせているのですが、ジャングル状態になっています。
ところが、花が咲きません。生育が遅いのか、肥料を間違えたのか。
ようやく昨日7日に、一輪咲きました。でも、次のつぼみが見当たりません。気長に待ちましょう。
記録を見たら、去年は7月28日、一昨年は8月5日でした。
吉川一義著「『失われた時を求めて』への招待」(2021年、岩波新書)を読みました。
20世紀最大の小説とも言われるプルーストの「失われた時を求めて」。挑戦された方も多いでしょう。
かくいう私も、若い時に分厚い翻訳を買って、早々と挫折しました。冒頭の主人公がベッドの中で長々と思い出にふけるように、そこから前になかなか進めませんでした。
で、吉川先生の本を読んで、まずは概要をつかむことにしました。なるほど、そのようなことが書いてあって、このように読むのだということがわかりました。
案内書は重要ですね。この本を読まずに小説に取り組んでも、あらすじを追うのに精一杯だったでしょう。
さて、小説本体には、いつ取り組むでしょうか。なにせ長編ですからねえ。
今日は趣向を変えて、涼しげで雄大な風景をお見せします。
どこだと思いますか。スロベニアです。どこにある国か、ご存じない方も多いでしょう。中央ヨーロッパ、旧ユーゴスラビアです。イタリアのベニスの東といったら、位置はわかるでしょうか。しばし、日本の蒸し暑さを忘れてください。


写真は、松島浩道・駐スロベニア大使の提供です。
「本を増やさない」の続き、その後の経過報告です。
キョーコさんが崩してくれた本の山から発掘された本の中に、読みたい本がたくさん出てきます。それを、順次読んでいます。これで満足しておれば、新しい本を買わずにすむのですが(前もって笑い)。
1 本屋に行かない決心は、守れません。書評欄や広告で、面白そうな本が載っていると、見たくなります。
2 ある本を読んでいて、関係する本が紹介されていると、読みたくなります。アマゾンで、簡単に取り寄せられます。これも、くせ者です。かつてなら、古本屋をはしごして探す必要があったのに、すぐに手に入ります。
3 いただき物の本が届きます。交遊が広がり、いろんな方から送ってもらいます。ありがたいことです。すぐに読んで、感想を送らなければならないのですが、全部に目を通すことはできません。いただいたお礼を述べたあと、積ん読になるのもあります。すんまへん。
「本を増やさない」を読んだ肝冷斎から、次のような趣旨のぼやきがありました。
・・・中国古典の続きを探そうと本の山を崩してしまい、大混乱になっています。そのおかげで、同じ本がいくつか見つかりました。しかも先に古本屋で安く買ったのを、新刊を定価通り買ったのがあるのです。ほんとうに情けなくなりますよね・・・
でも、まったく同情せず。
写真も送ってもらったのですが、彼の名誉のために転載しません。もっとも、以前に載せました。この状態よりさらにひどくなっています。
「松戸散歩」の続きです。
帰りに、駅前の高台にある、旧陸軍の工兵学校跡を見てきました。これも、訪ねたいと思っていました。亡き父が、訓練を受けたところなのです。
1921年生まれの父は、職業軍人ではなく、召集を受けた後、陸軍予備役将校となる幹部候補生試験に合格しました。戦時中で不足する将校を補充するため、士官学校卒の将校(職業軍人)以外に、このような選抜教育の仕組みがありました。そのような試験があることを知らずに入隊し、夜に便所の明かりで猛勉強をしたそうです。
「幹候試験は、奈良県内で数人しか受からない。高文試験(高等文官試験)より難しい」と語っていました。(その息子は体格も立派でなく、陸軍士官学校も廃止されていたので、高等文官試験の後継(国家公務員上級職試験)を受けました。)
しかも工兵という兵種で、松戸の工兵学校で教育を受けたのです。体格がよく、運動能力もよく(県内の陸上競技での入賞メダルもありました)、工業学校卒ということで、工兵に配属されたのでしょう。大阪高槻から東京赤羽、そして松戸で教育を受けました。
目の前にある江戸川で演習をして、橋を架ける訓練のほか、寒い季節に川に浸かって布を縫う訓練もあったそうです。要領のよい生徒は、事前に針に糸を通しておくのだそうです。手がかじかんで、針の穴に糸を通すどころではないとのことでした。
私が父と暮らしていた頃、高校生までですが、父が友人と酒を飲んでそんな話をするのを、横で聞いていました。戦争が終わってまだ20数年後のことです。いくつかの話を覚えているのですが、もっとしっかり聞いておくべきでした。
父が亡くなってから、ふと「松戸の工兵学校」を思い出し、インターネットで検索したらいろいろと載っていました。そこで、一度は訪ねたいと思っていたのです。父が元気なうちに、一緒に行くべきでした。
その後、父は准尉、少尉となり、中国旅順にあった船舶工兵の部隊に配属されました。大発(大発動艇)で敵前上陸する部隊です。海軍でなく、陸軍にあったのです。
そして、北は満洲ソ連国境、南はフィリピンからインドネシアへ。それらの経験は、一冊の本になるくらいです。それはまた別の機会に。