職場で、ゴミや書類などが落ちていたら、あなたはどうしますか。
A 知らんふりをして、通り過ぎる。
B 部下に注意する。
C 黙って拾う。
我が職場は、民間ビルなので、清掃員が毎日掃除をしてくれます。それでも、クリップが良く落ちています。大臣室まで往復すると、3つくらいは貯まります。私が、下を向いて歩いているから、見つけるのでしょうかね(苦笑)。
今日は帰りの地下鉄で、定期券を拾いました。座った向かい側の座席に、手帳らしきものが落ちているのを見つけました。しばらく見ていましたが、左右に座っている人も、気がつかないようです。私が降りる駅が近づいたので、そばに行って「これは、あなたのですか」と聞き、誰も反応がないので、中を見たら定期券でした。駅員に届けましたが、落とした人は困っているでしょうね。
私もこれまで、いろんなものを落としたり、電車に忘れたりしたので、他人のことを言えた立場ではありません。万年筆、傘・・・。
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生き様-生き方
目は口よりも、ものを言う
昨日の「社会脳」、相手の心を読むにはアイコンタクトが重要だ、という話の続きです。
「目は口ほどに、ものを言う」という、ことわざがあります。私は、「目は口よりも、ものを言う」だと、思っています。次のような場面を、想定してください。
場面1。あなたが、部下や子どもに、お小言を言います。相手は「申し訳ありません。私が悪かったです」と言いながら、視線はあなたではなく、空を見ている場合。「こいつ、本気には反省していないな」と思うでしょう。言葉より、目の方が、本心を表しているのです。
場面2。あなたが失敗をして、母親か奥さんを怒らせてしまいます。その際に、お母さんや奥さんが「良いわよ、こんなことは許してあげるから」と言いながら、目はつり上がり、目の中には炎が燃え上がっている場合。「許してもらえた」と思いますか(リアルですねえ・・。苦笑)。
人の脳は、男性で平均1.4キログラム、女性で1.3キログラム。体重の約2%しかないのに、体全体が使うエネルギーの20%を使っているのだそうです(『社会脳の発達』p20)。道理で、学生の時に勉強すると、おなかが減りました。
社会人になると、人と話す場合が、最も疲れます。私の場合は、授業や講演会もヘトヘトになりますが、気を遣う人との会話が最も緊張し、疲れます。同じ一対一でも、気心の知れた人とは、それほどは疲れませんが。相手の発言と顔色に全神経を集中し、相づちを打ち、話題を発展させと、気を遣いますよね。横で聞いている人は、「全勝さんは、無神経によくあんな発言をしますね」とあきれますが、これでも、結構気を遣っているのです。
その際に、相手の視線と顔色をうかがい、心を読むとともに、時機を失せずに言葉を継ぐことも重要です。相手が、「私の言っていることが正しいだろう」とか「私は美人」と発言した際に、「おっしゃるとおり」または「御意」という言葉を、間髪入れずに返すかどうかです。返事が、0.5秒遅れたら・・・。
相手との関係を作る脳の力
千住淳著『社会脳の発達』(2012年、東大出版会)を読みました。出張の新幹線と宿は、本を読むにはありがたい時間です。
ヒトは、他人がいなければ生きていけない動物です。「社会」がなければ生活できない動物です。その社会行動を、脳神経から研究するのが、社会脳研究、ソーシャル・ブレインズ研究です。
他人と共生する際に必要な能力、それは相手の心を読むことだそうです。相手が何を考えていて、何をするのかを予測します。なるほど。
その際には、アイ・コンタクトや相手の視線がどこを向くかを読むことが、重要であること、自閉症者は相手の心を読むことが不得手であることなどが、実験によって示されています。いくつもなるほどと思うとともに、まだまだわからないことが多いこともわかります。
普段の生活でも、相手の心を読むことは重要ですよね。その先を読んで、当方の次の発言や行動を考えます。それが、円滑な会話や良好な関係を生みます。もっとも、間違った先読みをして、失敗することも多いですが。
かつて読んだ、藤井直敬著『ソーシャルブレインズ』(2010年、講談社現代新書)を思い出しました。手元のメモには、次のようなくだりが、書き留めてあります。
喜びも、他者との関係性の中で感じるもので、モノによって感じるものではない。
赤ちゃんは、他者との関係性がないと死ぬ場合がある。
意思決定とは、たくさんの可能性を絞り込むプロセス。ルールは、社会からトップダウン的に与えられるだけではなく、各個人がそれを受け入れ、咀嚼して脳内に取り込むことで成り立っている。
ルールは、社会というシステムとその構成要素である私たちの間で起きる相互作用によって維持、実行されている。各人が、ルールを受け入れる理由は、認知コストを少なくできるから。無限の可能性から選ぶというコストを、選択肢を狭めることで、少なくする。そしてそれは、社会の安定性を増す。
今回この記事を書くに当たって、確認しようとしたら、本が見当たりません。本棚にないということは、床に積み上げた山の中に埋もれているということでしょう。捜索は断念しました(反省)。
いつの間にか9月が過ぎました
今日は、10月1日。また、私の了解なしに、9月が過ぎました(笑い)。この1月間に、何をしたか。それを考えて、反省しています。先月も、同じことを書きました(9月3日の記事)。
手帳を見ると、いろんなことをしているのですが。中学の時に、先生が朝礼でおっしゃった言葉が、今も焼き付いています。「酔生夢死」です。「明るい係長講座」でも書いたので、詳しくはそちらをご覧ください。
「何をしたか」は、会議の回数や出張の回数ではなく、忙しさでもなく、「何を達成したか」で計られるべきです。もちろん、今直ちに結果が出ないものもあります。種をまいていることも、多いです。でも、12月には、「今年は、これをした」と、書きたいですね。
時々、「何になった」(あるポストに昇進した)ことを成果に誇る人がいます。でも、それはあなたにとって成果でも、組織や社会にとっては成果ではありません。「である」ことでなく、「すること」「したこと」で計りましょう。
「であることとすること」は、もちろん、丸山真男先生の『日本の思想』(岩波新書)の名文です。
閑話休題、来賓の胸のリボン
式典や集会の際に、来賓の胸にリボン(赤や白の花の形をしていて、足が生えたような徽章)をつけることがあります。私は、以前から、この風習は変だと思っています。
若い頃、知事の代理で式典に出席すると、大きなバラか菊の形をしたリボンを胸につけてもらい、「偉くなったようで」うれしかったです。でも、あるときから、「これは、何のためにあるのか」、疑問に思うようになりました。
安全ピンで服に刺す場合は落ちないのですが、短いプラスチックの定規が刺してあって、これを胸ポケットに刺して留めるものもあります。これって、お辞儀をして前屈みになると、落ちるのですよね。
また、そんなに偉くもないのに、大きなリボンをつけるのが恥ずかしくなりました。それで、リボンをつけるのがいやになって、受付で拒否するようになりました。すると、主催者側の人に、しかられるのです。「つけてもらわないと、困ります」「皆さん、つけておられます」と。でも、これでは、理屈になりません。
そして、あるとき、気がつきました。「胸のリボンは、来賓のためにあるのではない。主催者側の職員が、来賓の個体識別が付かないので、リボンで識別しているのだ」と。
天皇陛下が、リボンをつけておられるのを、見たことがありません。宮中の儀式でも、たぶん誰もつけないのでしょう。勲章はつけますが。服装のルールを書いた本には、どのように載っているのでしょうか。
特に、リボン(花の大きさ)に大中小とランクが付いているのも、いやですねえ。特大をつけてもらって喜ぶのは、子供じみていてい。もっとも、それを喜ぶ人がいるから、この風習は続いているのでしょう。よって、そのような方が、より大きなリボンをおつけになることを、私は否定しません。でも、私は、恥ずかしいのです(失礼があったら、お詫びします)。
それ以来、私は胸にリボンをつけることを、拒否しています。ただし、入場券代わりにみんながつけるリボンは、拒否しません。これは、重要な機能を果たしていますから。そのような場合は、大きなバラの花ではなく、ごく簡単なもので、全員共通です。