カテゴリーアーカイブ:人生の達人

復興庁の引っ越し

2016年5月6日   岡本全勝

今日は連休の谷間。連休中に事務所が引っ越したので、新しい仕事場に出勤して、荷物の荷ほどきをしました。といっても、そんなにたくさんの荷物ではないので、すぐに片付きました。机やパソコンなどは、業者と職員が運んで据え付けてくれてあったので、直ちに使うことができました。ありがとう。机や棚の配置が変わったので、少し使い勝手が悪いです。もっとも、すぐに慣れるでしょう。
三会堂では、次官室や統括官室の前に職員たちの執務机が並んでいたのですが、新しい事務所では次官室・統括官室と職員たちとは、少し離れています。官庁らしくなったということでしょうか。職員にとっては、しょっちゅう次官がやってくるより、落ち着きますかね(苦笑)。
新しい執務室は、4号館(財務省の裏、法制局が入っているビル)です。窓からは、国会議事堂が見えます。10年前に、内閣府官房審議官(経済財政担当)の時に、このビルで2年勤めたのですが、記憶が薄いです。冬、窓際が寒くて、机を動かした記憶があります。

福澤武さん、社風を変える3

2016年5月5日   岡本全勝

2002年9月、新しい丸ビルが開業します。
・・・それは社員の創意と改革の結晶でもある。
「これはビル部門だけの仕事ではない。支店を含めて全社から意見を出して欲しい」。建て替え計画をを決めたとき、社員たちに訴えた。丸ビルの建て替えは、新しい三菱地所をつくることでもあった・・・(4月29日掲載分)
福澤さんは、さまざまな「慣行打破」を進めます。建築工事を、コスト削減と透明な取引のために、建設会社の入札に変えます。テナント集めも、説明会に来た会社から選ぶだけでなく、入って欲しい店に出店をお願いにいきます。路面店が外壁や窓の装飾を変えることも認めます。
・・・当時は「休日の丸の内はゴーストタウン。商売にならない」と言われた。営業部隊では「上から下までオフィスの賃貸にしてくれ」という声も根強かった。そんな常識を打ち破ったのは、創造性に富む若い社員たちだった。
社内の空気は社長に就任したときとは別物である。ある営業の役員は取締役会でテナントの選定の理由を自信満々に説明していたが、何のことはない。「廊下でウチの若い社員に聞いてみました。私は知らない店だけれど、大丈夫です」と力説していた。
「ビジネス・オンリー」ではない街をつくる。米国駐在時代に学んだ教訓である。そんな意思の下で社内が一体となって動いていた・・・(4月29日掲載分)
さらっと書いておられますが、100年続く会社の前例を打破すること、職員の意識を改革するには、大変なご苦労があったことと思います。本になる際には、そのあたりのことを書き込んで欲しいですね。でもそれは、福澤さんの哲学には、ないのでしょう。ご本人は、丸ビル改築完成を待たずに社長を退き、後任者に花を持たせるのです。

福澤武さん、社風を変える2

2016年5月4日   岡本全勝

日経新聞「私の履歴書」、福澤武さんの続きです。
福澤さんは、丸の内の再開発をされるまでに、三菱地所の「殿様商売」を徐々に変えていかれました。徐々にといっても、大変なご苦労があったでしょう。
かつて、1つのビルに同じ業種の店を複数入れることを禁じる「1業種1店舗」の原則があったそうです。うなぎ屋が入っていると、後から入った日本料理屋はウナギ料理が出せないとか。テナントの要望を聞くことなく、古い原則を守っていたのです。この原則を変えるには、現場の管理事務所の副所長ではできず、本社に戻って部長となって、担当役員に了解をもらって変えることができました(4月23日掲載分)。
日本の地価神話(右肩上がりが続くはずだ)と、丸の内という超一等地を抱えていることで、会社と社員は「改革意識」は薄かったでしょう。福澤さんは、その当たりのことを、詳しくは書いておられませんが。丸ビルなどが老朽化してきたこと、テナントの丸の内離れが起きていたこと、そしてバブル崩壊で、それまでの常識が崩れ去ります。
・・・ビルの営業部門はずっと増収増益だったのに、とうとう減収減益に陥った。テナントを引き留めるための値下げの連続に社内はとまどっていた。収益予測を調べさせたとき、部下の返答に絶句した。
「ウチの情報システムは値上げしか想定していません。値下げのときは計算できません。手作業になります」
苦笑いしか浮かべられなかった・・・(4月24日掲載分)。

逆境に逆転の発想を出す

2016年5月3日   岡本全勝

朝日新聞の生田正治・元商船三井社長、郵政公社総裁の連載「経営、真っ向勝負」5月2日は、「禍転じて提携を生む」でした。
北米東岸航路で提携先の会社から突然、提携解消の通告を受けます。商船三井が単独で航路を維持するには船が足りない。仕方ないので、新しい提携先に世界有数のコンテナ船会社を選び、直談判して話をまとめます。そして、東岸だけでなく西岸も提携の提案をもらいます。
・・・そのとき、ふと思った。まだ歴史上にない、グローバルな提携をやったらどうか、と。太平洋も欧州もインドも大西洋も。世界をつなぐ提携です。利点は大きい。たとえば1社10隻の航路で、4社40隻が協力しあえば、立ち寄らずに済む港が多数うまれ、航海日数が短くなる。積み荷が届く速さが劇的に上がる。生産性は高まり、コストも大きく合理化される。航路ごとの提携が伝統だった当時の海運界では、突拍子もない発想でした・・
そしてそれに成功します。
・・・史上初のグローバル・アライアンス(提携)の誕生です。反響は大きかった。「発表は間違いだろう。そんなことできるわけがない」。他社からはそんな電話がありました。英ブリティッシュ・エアウェイズ、米デルタといった航空会社の幹部は、しくみを知ろうと訪ねてきた。航空会社の世界提携が始まる前でしたから。
我々の提携の優位性は2~3年は持つだろうと期待しましたが、他の船会社は1~2年で追随してきた。いま振り返ると、時代の要請だったのでしょう・・・
航空会社の国際的提携も、ここから始まったのですね。日本人が考えた「仕事(商売)の仕組み」です。

福澤武さん、丸の内の再開発

2016年4月29日   岡本全勝

日経新聞「私の履歴書」4月は、福澤武・元三菱地所社長でした。若いとき肺結核を患い、中学高校に通えず、大検で慶應大学に進みます。28才で卒業し、採用年齢制限のなかった三菱地所へ。その方が、社長になられるのです。連載では闘病生活に多くが割かれ、会社員時代のご苦労は少ししか触れておられないようです。ご自身の経験からすると、生死の境をさまよい、人並みの生活を送れなかったことのほうが、重い意味をもったのでしょうね。「それに比べれば、会社員の苦労なんか・・」ということでしょうか。
私が特に興味を持ったのは、丸の内(東京駅の前、三菱村と呼ばれる地区)の再開発です。丸の内は東京を代表するビジネス街です。東京駅の玄関であり、丸ビルに代表される、大企業が集まった地区です。私が就職した頃、そしてその後長く、私には、「縁遠い街」でした。行くことは、まったくありませんでした。東京駅で降りてご飯を食べるにしても、裏口である八重洲口にある猥雑な地域を利用していました。純粋なビジネス街であって、そこで勤務している人や仕事に関係ある人以外は、近づかない地区でした。それを、現在のような、高級商店やレストランがある街に変身させたのが、福澤さんです。今回の連載を読んで、初めて知りました。
その原点は、アメリカ勤務にあります。1975年から3年半、ニューヨークに駐在します。パートナーは、名門証券モルガン・スタンレーの不動産子会社です。
・・・街づくりのヒントも見つけた。モルガン・スタンレーはもともと、金融機関が多いウォール街のあたりに本社を構えていたが、ロックフェラーセンターに引っ越すと、女性社員たちが大喜びをしたという。会社の近くで食事も買い物も楽しめるようになったからだ。
「ビジネス・オンリー」の街はいつしか活気を失っていくのではないか。週末はゴーストタウンと化す丸の内の街並みが頭をよぎった・・・(4月22日掲載分)
それでいうと、霞が関も官庁街であって、街ではありません。今でこそ、いくつかの庁舎にコンビニやしゃれた食堂が入っていますが、かつては、職員食堂と小さな商店しかなく、休日に出勤すると「陸の孤島」でした。今も大して変わっていませんが。街との接触を避け、機能面で純化することは、生活のしやすさやにぎわいを考えると、良くないですね。郊外に移転した大学もそうでしょう。部外者を排除し純化すると、たぶん生活も思考も、「狭くなる」と思います。一種の租界であり、塀には囲まれていませんが、刑務所の中と同じです。街の中で雑居している方が、人間らしく生活できます。溜池にある三会堂ビルは良かったです。周囲は飲食店がたくさんあり、赤坂も近かったです。今度の執務室がある4号館は、陸の孤島の霞が関でも、その真ん中にあるのです。